津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■江戸図屏風を散歩する

2023-03-04 15:52:02 | 地図散歩

 大いに花粉に怯えている。花粉対策用のゴーグルを買おうかと真剣に考えているが、効き目は有るのだろうか。
ここ数日、目が痒い事はなはだしく、ベランダに出るのさえ躊躇しており、今日は散歩も控えている。

 時間つぶしに国立歴史民俗博物館の「江戸図屏風」を詳細に眺めている。
この屏風の制作年については定説と言ったものはないようだが、明暦の火事以前と云うのは確かである。
お茶の水に水道橋と懸樋が描かれており、その真向かいには吉祥寺が描かれている。(この周辺にいた人たちが、現在吉祥寺と呼ばれている町に住み着いた)
吉祥寺の跡地には何方の屋敷ができたのだろうかと、「江戸切絵図」をめくってみたら、こちらは小さな区画の旗本屋敷が連なっていた。
ここで首をかしげるのは、懸樋は万治年間に欠けられたという事であるから、明暦の火事以降の話と時代が前後してつじつまが合わない。
錦絵を見ると、懸樋と水道橋の距離がこの絵の様に接近していない。つまり屏風絵の水道橋と懸樋は明暦の火事で燃え落ち、その後すぐに少々位置を変えて錦絵の場所にかけ替えられたという事であろう。
こんなことを思いながら屏風絵を眺めていると、一ニ時間は時間をつぶしてしまう。

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■綱利公の参勤

2023-03-04 06:52:33 | 史料

 細川綱利の藩主在任期間は、慶安三年(1650)四月十八日に遺領を相続してから、正徳二年(1712)七月隠居が許されるまでの間62年に及ぶ。幼くして藩主となったから初入国は寛文元年(1661)四月廿八日のことである。
五か月に満たない在国で九月には江戸へ旅立っている。これを参勤第一号と考えるならば22回参勤していることになるが、晩年はいろいろ理を付けて帰国を渋っている。最後の参勤が宝永元年だから約七年くらい江戸を離れなかったことになる。
なかなか藩主の座を離れようとせず、帰国すれば「押籠め」にされるという噂さえ在ったという。家老木村半平が次の間から離れず諫言をしてようやく隠居を決心したという。
今日は三月四日、何故か綱利の参勤出発はこの日が多く六回に及ぶ。三月三日は上巳の日で家士の御礼を受けなければならない。
則、翌日は江戸に立とうという気持ちが見て取れる。お国より江戸大好きの殿様であったように思える。

1、寛文元年(1661)九月十八日熊本御発駕 十月廿二日江府御着
2、寛文四年(1664)六月十一日熊本御発駕 七月九日江府御着
3、同六年(1666)三月四日熊本御発駕 四月十三日江府御着
4、同八年(1668)三月四日熊本御発駕 四月四日江府御着
5、同十年(1670)七月五日熊本御発駕 木曽路御旅行 八月七日江府御着
6、同十二年(1672)二月廿二日熊本御発駕 三月廿二日江府御着
7、延宝二年(1674)二月十一日熊本御発駕 三月七日江府御着
8、同四年(1676)二月十四日熊本御発駕 三月十三日江府御着
9、同六年(1678)九月十一日熊本御発駕 十月十一日江府御着
10、同八年(1680)七月十八日熊本御発駕 木曽路御旅行 八月十三日江戸御着
11、同二年(1682)三月六日熊本御発駕 四月七日江戸御着
12、貞享元年(1684) 天和四年改元 三月十日熊本御発駕 四月六日江戸御着
13、同三年(1686)閏三月六日熊本御発駕 四月六日江戸御着
14、元禄元年(1688) 貞享五年改元 三月四日熊本御発駕 四月七日江戸御着
15、同三年(1690) 三月四日熊本御発駕 四月四日江戸御着
16、同五年(1692)三月四日熊本御発駕 四月四日江戸御着
17、同七年(1694)三月四日熊本御発駕 四月九日江戸御着
18、同九年(1696)三月六日熊本御発駕 四月十一日江戸御着
19、同十一年(1698)三月四日熊本御発駕 四月九日江戸御着 初而小倉路御旅行
20、同十三年(1700)二月廿八日熊本御発駕 四月三日江府御着
21、同十五年(1702)二月廿五日熊本御発駕 四月三日江戸御着 小倉路中国路御旅行
22、宝永元年(1704) 元禄十七年改元 三月廿五日熊本御発駕 四月三日江戸御着

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