林外記は光尚の用人(大目付)を務めた人物、阿部一族の誅伐事件に際し、ライバルの竹内数馬を討手の大将に任じた。
任じられた数馬は、死を決して望み、意の如く打ち死にした。
一方外記については光尚の死去に際しては殉死するであろうと皆が考えていたが、これを為さなかった。
何が原因か判らないが、佐藤傳三郎らが外記邸を襲撃して殺害するという事件が起きた。
彼の屋敷は、花畑邸前から城内に向かう下馬橋を渡りすぐ左に曲がった角に大きな屋敷を給わっている。
隣には妻の実家、医師の❍❍の屋敷が有り、佐藤傳三郎が討ち入ったとき妻は実家に逃れた。
外記は、高麗門外・横手にも250坪の屋敷を拝領している。
「新・熊本市史」の「地図篇」には、「高麗門 塩屋町の絵図」が4種存在するが、外記の屋敷を示す絵図は存在しない。
その屋敷の向かい側には、嶋原の乱の際天草四郎の首級を挙げた、陣佐左衛門の屋敷があったがこれとて定かな位置が記された資料はない。
しかし地元ででは伝承があり大方の位置は想像できる。
高麗門から妙解時に至る「御成り道」に面して妙立寺があるが、その左手に道がある。
その道の一本左先に路地があるが、この道を入った二軒目左手に林外記邸、右手に陣佐左衛門邸があったという。
これは、地元に伝聞されるかなり信憑性の高い情報である。近いうちに地図を書いてupさせたい。
時がたてば失われる情報だから、我がブログに残しておこうと思う。