津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■霊樹院(古屋姫)さま

2023-03-18 06:47:51 | 人物

 「西の武蔵塚」とよばれる処に、三卿家老有吉家五代(源有吉を初代とする有吉家の系図による)英貴室・霊樹院(古屋姫)の墓地がある。有吉家ではなく細川家が建立したものだと伝わる。??
有吉家の代々の墓地は、坪井の「峰雲院」であるが、英貴室・霊樹院さまとそのお子達だけが特別扱いされている。
実は20代・有吉立礼が明治36年に当時の大蔵大臣曽禰荒助に提出した「家記概略」に「霊樹院さまは豊臣秀頼の娘」だとしたことから、いろいろ議論がなされている。
国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏が、著書「大阪落城異聞‐正史と稗史の狭間から」に「熊本藩細川家家老有吉家と秀頼息女霊樹院伝承」で取り上られた。

 有吉英貴は3代・立行(平吉・四郎右衛門)の二男だが、嫡男・興道が元和4年に36歳で死去したため、本家5代目となった。
元和8年(1622)5月14日の忠利宛三斎書状に、二人の結婚に関する記事が現れる。
つまり、前の奥方(朽木六兵衛女)が亡くなって十日後の話である。
   (前略)有吉平吉(立道=英貴)女房共煩候て相果候、然者、薮小吉(正直)所へ遣候伊賀殿(三淵好重=幽齋末弟)
   むすめ之いもと(妹)候て、それを遣度候
そして当人たちには全く話してはいないし、同心してくれたら「来冬之時分可申出候」としながら忠利に報告している。

 英貴は正保2年(1645)2月に46歳で亡くなっているから、この時期は24歳くらいであろうか。
一方秀頼の死は元和元年(1615)であるが、当時このお子秀頼娘だとされる古屋姫は何歳であったろうか?
またこの姫は加藤清正の伝手で九州に入っているが、いつの時期細川一族三淵氏の許に入られたのであろうか。
正史では語られることのないこの姫様のことは、ただ憶測の中で不思議な存在としいぇ語り継がれていく。

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