忠興は豊前国を拝領して入国してまずは中津の城に入城している。
先にも触れたが、黒田家との確執は中津の城に住まう事さえ疎ましい事であったのかもしれない。
■確執の中の細川・黒田両家
その後小倉城を築城整備して移り、隠居するまで自らの居城とした。中津には嫡子・忠利を住まわせた。
忠興が隠居し三斎と名乗ったのは、元和7年9月のことで忠利が小倉城主となり、三斎は再び中津城に入った。
いわゆる、「三斎様御附中津ニ相詰候衆」(士数93人、綜総人数788人)を引き連れた。
そんな中、かっては自らに仕えた者たちが、代替りを期に自分を見捨てたかのように伺候しないと三斎がボヤいている。
その効き目は十分にあったらしく、多くの者が10数里離れた中津へ伺候して三斎はその対応に音を挙げている。
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小倉 中津
態申候、其方ニ家督相渡我々隠居之事、代か一度とハか様之事たるへき處ニ、于今其地ゟ此方へ見廻ニ不参者共在之事ニ候、 小笠原長元・松井興長
惣庄屋共ニも如此之類御入候、其方被申付用所も候て如此候哉、不審ニ候、面ニも申候、民部・式部を以も申候、又先度、
加賀山可政
加々山主馬ニも如申候、家中上下侍小者ニ至迄、如何様ニも其方次第たるへく候、我々構一切無之儀二候、然共右之様子ハ
我々身ニ懸事ニ候間申候、既此祝儀ニは従歴々使者も来候、又目をかけ候上方之者共いつれも見舞ニ参、又移徏之祝儀をも
申候て可上と申、于今逗留仕ものも在之事ニ候、扶持人にて無之ものさへ如此儀處ニ、國中ニ有なから今迄不参は存外之儀
かと存候、萬不構とハ申なから、外聞わるきやうニ可仕子細毛頭無之候間、いかやうニも世上之聞え、我々ため可然様ニ被
申付可給候哉、但分別次第ニ候、其内矢野利斎こときの者、又ハそはの小々性、其外も用所被申付候者ハ各別之事ニ候、
此方ゟも比類之者ハ我々申付候て不遣候、此外不参之者其方にてせんさく被仕候はしれ可申候、以上
三斎
九月五日 (花押)
内 記 殿
進之候
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一我々隠居不見廻者共之事、此以前無分別ニてむさとしたる儀を申、後悔ニ候、就其江戸へ不被越以前可申儀共在之ニ付而、
其時可申と一書ニ仕置候、則主馬ニ見せ申候、志水宗加を初、其方可然と被存者可然様ニ何事も可被申付候、われ/\へ之
届一切構不申候事
(後略)
以上
十月十三日
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20日ほど三斎は呼びつけておきながら、したり顔で多くの小倉の家臣たちに対応したのだろう。
さて世間への聞こえは如何であったろうか。後悔後を絶たず・・