細川家の家臣で、10,000石以上の高禄を領した人物は、三卿家老(松井・米田・有吉氏)の歴代の他、沢村家2代友好‐3代友雅‐4代友朗)村上家(景廣及び景則)と藪家(内匠)の3家に留まる。
沢村宇右衛門友好は沢村大学吉重の養嗣子(2代)だが、この人は松井康之の姉の子・松井二平次定高の四男・庄次郎で松井氏を出自とする人である。3代同友雅ー閉門知行取り上げ・4代友朗と続いた。
村上家は二代続いたが、初代村上景廣は村上水軍・備中笠岡城主から細川忠興に仕えた、息・景則(村上)は豊前から八代時代の三斎付家老であり三斎死去後離国した。
薮家は内匠一代のみである。今回は「藪家記」から、その内匠とその一族について取り上げてみたい。
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一武學拾粹ニ云 天正六年播刕上月の城(戦)と毛利勢取囲たるを後援として織田信忠高倉山へ押出し日夜の合戦止事なし
或時薮内匠忠總足軽二百斗を連て鉄炮を放ち懸けれは毛利の陣よりも児玉兵庫元兼是も二百斗を随へ鉄炮迫合ありて互
ニ玉薬尽て内匠と兵庫鑓を合すへき為に馳寄けれとも陣合に荊棘茂いたる竹藪有ニより両人薮越に鑓を合す 児玉八郎従
三戸善兵衛か乗りたる馬の頭を突けれは馬驚き飛走内匠か十文字の横手葛に■り取落しけるを善兵衛薮を潜り其鑓を取
内匠ハ馬を除々と歩せ本陣に打入りたり 此時の振舞抜群なりとて世に隠れなき故本性(姓)中村を改め薮と称す 是は世
に所謂大鑓なる上ニ持鑓をさへ捨て退たるを斯高名となれる事心得へき事ならん
一今度被仰下候ハ薮内匠殿父は薮伊賀守殿と申信長公江被奉仕勢州長嶋にて討死之内此儀曽而不存事ニ御座候 匠殿父ハ偏
ニ相知ㇾ不申事ニ仕居申候處ニ今度被仰知感心不少候 生前之大幸不過之候
右之通ニ付於伊賀守殿ゟ前之儀此方江しれ可申様無御座候 但右之儀は三左衛門殿御代より被仰傳候事歟 又記録
傳記之類ニも見へ申候事歟 猶又御尋申上候 且勢州長嶋の戦は何方と取合之時ニて候哉 其節如何様なる御働ニ
而候つるかケ様之事も相知レ不申候ハゝ重而得知可被下候
一又々仰聞候ハ三左衛門儀ハ生国山城在所深草ニ而大坂夏御陳之節細川越中守忠興公三斎様也 御供被成五月七日天王寺口
毘沙門か池ニ而當手之壱番首御取三斎様ゟ知行千石御加増并貞利之小脇差被下其節 台徳院様江御目見も被成候由事傳
少御座候 此御紙上之趣此方申傳ニも大形違却無御座候 乍然御在所深草と被仰聞候はいつ比ニ御座候か大坂夏御陳之節ハ
三左衛門殿も豊前ゟ三斎様御舩一同ニ開城御上り候由申傳候御紙上之通ニ御座候得は常々深草ニ御座候様ニも聞へ申候
猶又承度奉存候
台徳院様江御目見と被仰下候得共爰元ニ而申傳尤傳記等ニも或は
大御所様或は
家康公江御目見と御座候御紙上之趣も慥なる事とハ奉存候得共如何と奉存候 其外ハ毛頭違無御座候
一内匠殿子息次第之事御紙上之趣此方覚と相違仕候 別紙に系を仕進上之仕候 爰元ニ而相知レ申候分ハ皆此系ニこもり居申
候
右は■之御養申上候餘ハ本書等御返報申上候以上
(以下、次回以降の家傳覚書につづく)