薮弘篤(久左衛門・慎庵)は子福者で四男五女である事を先に書いた。
四女は十七歳で戸波儀太夫に嫁いでいるが誠に運悪く、数日成らずして良人・儀太夫が死去した。悲劇の若い奥方は大変美貌の人であったらしい。
親族は離縁を進めたが彼女はこれを拒否して髪を下ろした。
ある時、彼女は長姉(柏原家分家200石・柏原彌右衛門室)を訪ねるが、美服である事をとがめられる。
これを大いに反省し、以来美しく装う事を止めたが、彼女が生きた時代は、長兄・市太郎(槐堂)は奉行職にあったが、宝暦の改革の時代であり特に衣服制度が厳しく規定された。
そんな兄には質素倹約の権化の如き風聞が多く残されている。
一方では、その美貌故に人々の注目を浴びこれにも悩んでいる。
又長姉にそのことを相談すると、「心正しからざるに因るのみ」といわれている。
「心正しからざる」とはどういう意味であろうか。美貌は天が与えたもので彼女の責任ではないが、そのことを意識しているというのであろうか。
思い悩んだ彼女は、「火器を以て全面を傷せり」とある。
「火器」が具体的にどのようなものであるかは判らないが、未亡人である美貌の人は、美貌であるがゆえに途上の人の注目を浴び、そのことに悩み思いがけない行動に出た。
長姉の言わんとする真の意味合いは計り知れないが、彼女の行動に姉は怒りまた詰責したという。
彼女は「為ん所を知らず」(どうしていいか判らず)ただ悲泣するのみであった。
その後は、婚家から離縁したのであろう、弟で藩校時習館教授の茂次郎(孤山)の家に寓して學を勉め一生を過ごしたとされる。
この様な事実に遭遇するとただ躊躇するのみで、運命に翻弄された可哀そうな人というような安直な解釈は通用しない。
厳格な武家の娘の自らを律する心の葛藤に揺れ動く精神世界を覗く気がする。
武家の矜持の一端を知らされる。