今日は朝から定期+検査で病院行き、検査の結果HbAc1の値が2ヶ月で10,4から6,5へと奇跡的回復を遂げました。
Dr.から「褒めてあげましょう」という言葉をいただき少々感激しました。
12月の検査で「入院勧告」を受けて、その後2ヶ月以上の自宅での徹底的な食事制限と運動の結果です。
最近ではその食事にもすっかり慣れてしまいましたから、次の検査では標準値に戻るだろうと安心しました。
体重も4㌔落ち、ウエストも細くなりこれも嬉しい成果です。
今日は朝食抜きですからお腹が鳴って帰って来ましたが、お昼もトースト1枚と特勢スープというメニューです。
「ご同病」の皆様もあきらめずに頑張ってください。
旧・井伊家上屋敷から桜田門を望む(ブラタモリから引用)
万延元年(安政7年=1860)の今日・3月3日江戸は雪景色であった。上巳の節句のこの日各大名は御礼の為に登城する日である。
これは旧暦の話だからグレゴリオ暦によると3月24日、随分遅い雪である。ご存知「桜田門外の変」という悲惨な事件が起きた。
私はある方から、現場の目前にある杵築松平藩の藩士らが事件の一部始終を目撃して残した古文書(写)を頂戴している。
現在の警視庁がある場所だが、誠に生々しい内容である。
名著「桜田門外の変」の作者吉村昭は、この文書を熟読されたと聞く。季節外れの雪が井伊家の家臣には災いした。
刀の柄が濡れないように、柄袋が懸けられており浪士に対し瞬時の対応ができなかった。
水戸浪士の蓮田一五郎を含む4名は、和田倉門前の老中・脇坂中務大輔邸へ自訴し『斬奸趣意書』を提出した。
4名は絶命者も含め一時期細川家に預けられたが、蓮田一五郎は絵が上手であったため、細川邸にて事件の詳細を描き遺している。
吉村昭の小説をもとにして作られた映画においては、この場面が良く再現されていた。
蓮田はのち、膳所藩本多家へ預け替えられ取り調べの後、文久元年(1861)の’7月26日文久元年(1861年)伝馬町獄舎で斬首された。
その絵もまた「桜田門外の変」の有様を伝える貴重な資料とされている。そしてこの絵の正面が杵築松平家32,000石の屋敷である。
この小さな無双窓から杵築藩士たちは息をのみながら一部始終を目撃していたのだろう。
よくよく考えると、井伊家上屋敷はかっての肥後加藤家(清正・忠廣)の屋敷であった。
又井伊家屋敷の裏手には、宇土細川藩の屋敷もあった。当日は異常な騒がしさが伝わったことであったろう。
蓮田市五郎筆「桜田門外之変図」 右手は上杉家屋敷