寛永六年(1629)六月三日奉行所日録に次のような記録がある。
一、おなへ様ゟ、遠藤吉右衛門を以被仰聞候ハ、末岡小介替之儀申候へ共、于今相済不申候、就夫、
(志水伯耆)
前かと與五郎様被召仕候清介と申もの、此中宗加ニ罷居申候、宗加御果候ニ付、前廉右之分ニ而
おなへ殿被召仕候ハヽ、御奉公申上度由申候、いかゝ可有御座哉と被仰下候、
細川興秋の遺児・おなべ様が遠藤吉右衛門なる人物を通して奉行所に仰せ聞かされたこととして、おなべ様の許に召し抱えていた末岡某の替りとして、以前父・與五郎に仕えていた清助が宗加(志水伯耆)の許に居たが宗加がこの度死去したことによりおなべ様にお仕えしたいと申しているとのこととして、奉行所の裁可を尋ねている。
細川興秋は天正11年(1583)母・ガラシャが味土野幽閉中に産んだ忠興の次男である。
慶長9年(1604)11月、父忠興の命により江戸證人として江戸に下る途中出奔、大坂の陣に於いては西軍に参加し豊臣家没落後の元和元年(1615)6月、父忠興の命により、城州・東光院にて自決したとされている。33歳。
おなべ様の中の父・興秋の記憶とはどのようなものであったろうか。おなべ様の生母(氏家元政女)は興秋の死後すぐに飛鳥井中納言持信に再嫁したから、おなべ様は生母とも引き裂かれたのだろうか?
興秋の死から14年後のこの奉行所日帳が語る一つの記事が、興秋の不幸な最期を考える時切なく迫ってくる。
しかし三か月後の奉行所日帳はおなべ様の嬉しいニュースを記録している。
寛永六年九月十日 鳥うたい候て、
一、遠藤吉右衛門尉登城にて申候ハ、御なへ様今夜〇七つ時分ニ輙御祝被成候、江戸へ便宜御座ハヽ、
御分を可被進之由、被仰由也、心得申候由申候、御息女之由申候也、
長岡與五郎興秋
‖---------鍋
氏家元政女● ‖----------伊千(のち、米田是長室)
南条元信
6,000石