津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お鍋様、父興秋の旧臣の召し抱えを願う

2023-06-03 09:05:23 | 先祖附

 寛永六年(1629)六月三日奉行所日録に次のような記録がある。

一、おなへ様ゟ、遠藤吉右衛門を以被仰聞候ハ、末岡小介替之儀申候へ共、于今相済不申候、就夫、
                     (志水伯耆)
  前かと與五郎様被召仕候清介と申もの、此中宗加ニ罷居申候、宗加御果候ニ付、前廉右之分ニ而
  おなへ殿被召仕候ハヽ、御奉公申上度由申候、いかゝ可有御座哉と被仰下候、

 細川興秋の遺児・おなべ様が遠藤吉右衛門なる人物を通して奉行所に仰せ聞かされたこととして、おなべ様の許に召し抱えていた末岡某の替りとして、以前父・與五郎に仕えていた清助が宗加(志水伯耆)の許に居たが宗加がこの度死去したことによりおなべ様にお仕えしたいと申しているとのこととして、奉行所の裁可を尋ねている。

 細川興秋は天正11年(1583)母・ガラシャが味土野幽閉中に産んだ忠興の次男である。
慶長9年(1604)11月、父忠興の命により江戸證人として江戸に下る途中出奔、大坂の陣に於いては西軍に参加し豊臣家没落後の元和元年(1615)6月、父忠興の命により、城州・東光院にて自決したとされている。33歳。
おなべ様の中の父・興秋の記憶とはどのようなものであったろうか。おなべ様の生母(氏家元政女)は興秋の死後すぐに飛鳥井中納言持信に再嫁したから、おなべ様は生母とも引き裂かれたのだろうか?
興秋の死から14年後のこの奉行所日帳が語る一つの記事が、興秋の不幸な最期を考える時切なく迫ってくる。

 しかし三か月後の奉行所日帳はおなべ様の嬉しいニュースを記録している。 

  寛永六年九月十日            鳥うたい候て、
一、遠藤吉右衛門尉登城にて申候ハ、御なへ様今夜〇七つ時分ニ輙御祝被成候、江戸へ便宜御座ハヽ、
  御分を可被進之由、被仰由也、心得申候由申候、御息女之由申候也、

      長岡與五郎興秋                                                                     
           ‖---------                                        
      氏家元政女●          ‖----------伊千(のち、米田是長室)          
                                  南条元信
                6,000石




 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和八年」を読む (2)

2023-06-03 05:47:59 | 先祖附

 忠興(三斎)文書-元和八年

337、五月朔日書状
 ・来九月、秀忠本丸移徙ノ進物
 ・久世廣宣中風之こと
 ・中津作事ニツキ土井利勝ノ請合ヲ得タレド、能請合ハ却テ成ルマジ
 ・秀忠日光社参、御供二万事ノ外警固厳重
 ・江戸城普請ニツキ大名衆賜暇
 ・細川玄蕃(興昌)ト井上正就ノ縁辺調ハズ、玄蕃妹縁談ハ未ダ公許ヲ得ズ
 ・松平忠直ノ出府遅々トシテ進マズ
 ・黒田‐藤堂間ノコト、我々関知セズ
 ・上記、秀忠移徙ノ進物伊丹康勝ト談合無用ノ由

338、五月十四日書状
 ・有吉立道ノ後妻ニ三渕好重女ヲ配セントス、忠利ノ意見ヲ乞ウ

339、六月十九日書状
 ・細川玄蕃妹縁談未ダ定ラズ
 ・五月十九日江戸城本丸修復ノ為秀忠ハ西ノ丸ニ移徙、家光ハ本多忠政邸へ  (実ハ家光ハ四月廿一日)
 ・曽我尚祐湯治

(元和八年夏・米田是季帰参ス)
913、月日未詳書状 御ち(門川備中女)宛書状
 ・米田是季ノ召抱ハ忠利ノ意次第

340、七月三日書状
 ・七夕ノ祝儀

341、七月十三日書状
 ・盆ノ祝儀(蓮飯三荷・三種)到来

342、七月二十六日書状
 ・前田利常室(秀忠女・球姫)死去ノコト
 ・松平忠直未ダ江戸へ下ラズ

343、八月十三日書状
 ・木下延俊女(忠興外孫)七月廿ニ日祝言、珎重候
 ・家光、川越ニ御成ノ予定(八月廿一日放鷹、酒井忠利邸泊)
 ・最上義俊改易ノ理由ヲ知リタシ
 ・藤堂家ノ婚礼ノコト

344、八月十六日書状
 ・(十四五年已前)石井筒献上二ツキ阿部正次ゟ問合セ受ルモ覚不申、小笠原民部・松井興長ニ小倉デ知ル者アラバ直申遣ス
 ・最上義俊改易赦免ノ説
 ・茶屋四郎(清次)病死
 ・三斎近日灸ヲ可仕コト

345、九月七日書状
 ・重陽ノ祝儀到来

346、九月十五日書状
 ・忠利迄最上氏改易ニツキ土井利勝自筆書状ヲ三斎へ届ク
 ・松平忠直、江戸下向ノ噂
 ・曽我尚祐病本復ス
 ・東国大名衆江戸ニ逗留ス

347、十月十七日書状
 ・本多正純改易、依怙ノ肝煎ナド発覚セバ、成敗モアルベシ
 ・黒田長政、本多ㇳ好誼アル故危カラン
 ・竹中重義・松倉重政等ハ才覚者ナレバ無事ナラン

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