津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■メダカの新居

2023-06-30 12:50:21 | 徒然

 引越しもしたことだし、メダカの住まいも新しくしようとAmazonでガラス製の水槽を注文した。
引っ越しに当たっては、小さなポリケースに入れて娘の車で膝の上に載せて移動させた。
地置きの状態で大きなポリケースで育ててきたが、この際何もかも小型化しようと思い18Lほどの水槽にした。
循環ろ過機だけを取り付け、照明もはずしてシンプルにしたが新天地で三代6疋が元気に泳ぎ回っている。
昨年の繁殖期以後は11疋いたが5疋も死んでしまい、水容量からすれば倍に増えても余裕だからちょっと補充も考えなければならない。
愛犬ゴエモンが18歳で死んでから、「もう犬は飼わない」と奥方に宣言され、取って代わったのがメダカである。
散歩をせがまれることはないが、餌や水の監理など結構気を遣う。この管理は当然のことながら奥方は一切ノータッチ私の管轄であることは当然である。
如何にも住み心地がよさそうに元気に泳ぎ回っている。


            濾過器の滝に流されて メダカターンする  津々

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■三井家と細川家

2023-06-30 06:50:58 | 歴史

                                         
                    三井越後屋と棒手振

 三井越後屋の創業者三井高利の孫・高房が著した『町人考見録』という史料に、沢山の大商家が倒産したが、殆どが大名の「踏み倒し」だとする一方、「大方大名がしの筋は同じことといいながら、その内わけて細川家は前々より不埒なる御家柄にて、度々町人の断りこれあり」と辛辣に記述されている。
この資料は享保十一年(1726)~十八年(1733)ころの成立だとされるから、細川家の当主は宜紀である。
宜紀は正徳二年(1712)、先代綱利の隠居に伴い遺領を相続したが、この時期「財政窮乏シ幕府ヨリ拝借金三十七万両ニ上ル」との記録が残る。
つまり、この窮乏の原因は綱利によってもたらされたものである。このような大金を幕府から融通されたにもかかわらず、三井家あたりからも高額の借り入れを為してこれを踏み倒したというのである。
処が三井家からこのような罵倒を受けるころ、宜紀は享保十三年十月手足がしびれる病に倒れている。病状は快方に向かう事はなかったとみられ、享保十七年六月廿六日に死去した。
宜紀の後は嫡子・宗孝が相続したが財政窮乏の状態は継続された。処がその宗孝が江戸城中で刃傷に及ばれ死去するという一大事が起きた。
急養子として弟の紀雄(重賢)が跡式相続するが、相続前の紀雄の住む部屋は壁や畳はぼろぼろであったというし、欲しいものを求める事も出来ず、羽織を一具願い下げいただきそれを質屋に入れて金を工面したという逸話が「聞くままの記」に記されている。
そのような財政窮乏の中で育まれた精神が、のちの宝暦の改革を成し遂げ、借金を完済し城中に備え銀を確保するほどになった。

重賢は綱利の血は引いてはいないものの、その生母(宜紀の祖母)で浪費家の清高院の血を引いているのが不思議とも思える。
歴史の不思議さは、血を越えてこういう高潔な英雄を輩出した。

 時代が下って現在では細川家と三井家は親戚関係にある。これも歴史の不思議さではあるが、「不埒なる御家柄」の話は禁句なのかもしれない。

 

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