津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和九年」を読む (3)

2023-06-26 16:55:15 | 史料

 忠興(三斎)文書-元和九年

388、九月廿五日書状
 ・谷下総病ム、喜齋ヲ遣ス 谷衛長ノ知行ノコト失念ス

389、十月十二日書状
 ・亥子ノ祝儀到来、祝着

390、十月十三日書状、
 ・中国ノ鶴ト筑前堺ノ鮭ヲ給、喜悦

391、十月十六日書状
 ・本多康紀歿ス

392、十月廿五日書状
 ・肥後ゟ到来ノ鷹ノ鴈給、祝着

393、十月廿九日書状
 ・秀忠ヨリ鷹ノ鶴拝領

394、十一月十五日書状
 ・筑後塩鴨ノなし物給、祝着

395、十一月廿三日書状
 ・唐猫ヲ所望ス

396、十二月十三日書状
 ・瓜ノ香物等給う喜悦、鷺取ノ隼アラバ借リタシ

397、十二月十四日書状
 ・忠利ヨリ鷺取ノ隼届ケラル

398、十二月十八日書状
 ・上野焼ノ水指給、満足

399、十二月廿日書状
 ・忠利ヨリ借用ノ隼ヲ返却ス

400、十二月廿二日書状
 ・美濃柿百他給、祝着

401、十二月廿三日書状
 ・忠利、三斎蔵入地へ走入リシ百姓ノ返還ヲ求ム
 ・忠利、三斎代ノ追放人ヲ呼ビ返サントス、領内ニ人ヲ多ク置キタシトノ意向ヲ察シ忠利ノ取計ヒニ委ス
 ・三斎代ニ他国ノ走百姓ヲ領内二入置ク、忠利領内百姓ノ三斎蔵入地ヘノ走人ハ返サズ
 ・幕府ノ法度ニハ本国へ返者ハ構ナシ、走セ損・取徳
 ・忠利直々ノ構アル者ハ法度ニ拘ラズ理非ニ入ラズ返サン、以来ノ走人ハ理非徳

402、十二月廿四日書状
 ・忠利、三斎蔵入地ヘノ走人ヲ免ズ
 ・走人ニツキ忠利側ノ申分ニ真実ナラザルコトアリ、理非ノ聞手別ニナクテハ解決セズ、理非決シ難ケレバ外聞悪シ
 ・理非ノ裁断ハ他国衆カ火起請ニ依ラザレバ決シガタシ、三斎側ノ申分ヲ真実ト為スニハ非ズ

403、十二月晦日書状
 ・歳暮ノ祝儀、祝着

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■熊本最大の水害は・・

2023-06-26 06:49:26 | 熊本

 今日6月26日は昭和28年の熊本大水害の日なのだが、当時小学校6年生だった私が通っていた大江小学校では学友27名が死去した。
我が家は鴨居の上まで水がきてすべての財産は流失し、戦後8年の母子家庭には大きな試練となった。

ふと熊本の歴史の中で最大の水害はいつのことだろうと思い立って調べてみた。

 熊本藩年表稿によると、寛政八年(1796)六月十一日に熊本を襲った大洪水(辰の年の水害)は、高さ1丈6尺(約4.8メートル)の古今未曾有の洪水と成り、熊本府内京町山崎の外全域浸水、潰家2,927軒、田畑15、202町、損毛362,000石に達し内坪井の流長院では九重の石塔の六番目、約6メートルの高さに達したという。
どうやらこれが熊本の歴史上では尤も大きな洪水なのではなかろうか。

この洪水は高さ4.8mとしながら、その流長院の九重の石塔は6.0m迄水没したというのは話のつじつまが合わないようにも思える。計測の基準が異なるのだろう。
この九重の塔は現地に出かけ写真に収めた記憶があるが、管理が悪く発見できずにいるが、坪井繁栄会のサイト「坪井まちあるき」にその姿が写されている。
それにしても損毛36万石とは大変な数字である。一方ではこの時の死者は59人であったとも言い、昭和28年の死者422人に比べると断然少ない。

 今年の熊本の梅雨は中休み状態がずっと続いて居り、7月に入ってから強い雨が降るのではないかと心配している。
それでも眼下の健軍川はいつもの涸川状態に流れが出来て一応川の様相を呈しているが、これが一端強い雨が降ると怒涛の川となる。
溢水の恐れはないように思うが、28年の水害がトラウマとなっており高台のこの地に住み着いているが、それでもこの季節になると雨が気に成って仕方がない。

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