ガラシャは死に臨んで忠興に対し「お藤」の名を挙げ、これを継室にしないようにと遺言したと伝えられている。
「子共の事ハ我為に子なれは忠興君の為にも子也、改め言におよハす、三宅藤兵衛事を頼候也、此上にいはれさる事なから藤を御上へ御直し不被成様ニとの事なり」(綿考輯録・刊本212頁)
ガラシャが山深い味戸野(三戸野)で子を想い、良人を案じているなかで、忠興はお藤に「古保」を生ませている。
お藤を継室にしないようにというガラシャの想いは、嫉妬ともとれるし、忠興への当てつけのようにも思える。
ガラシャの芯の強さをうかがわせる逸話である。
その「古保」は筆頭家老・松井興長の室となった。小倉城にある「松の丸」の名は「松丸殿」に由来したものであろう。
この松丸殿が寛永六年(1629)六月十九日が死去した。
当時の日帳に次の記録が残る。
一、松丸様夜前丑之下刻被成御果候、就夫、江戸へ御注進可申上ため、御飛脚両人申付、差上申候、
小早之御船頭は河村喜左衛門尉、御飛脚ハ西村文右衛門与林二郎左衛門尉・佐分利作左衛門与吉
(有吉英貴)(米田是季)
田久太夫、右両人ニ、我々言上之文箱之内ニ、頼母殿・監物殿ゟ之言上壱つ、同前ニ入、持せ上
(松井興長)(興長生母) (木下延俊)
申候、又我々ゟ江戸御奉行衆へ之状・式ア殿ゟ自徳院殿へ御状・右衛門殿ゟ自徳院殿へ之状、又
(成定) (坂崎) (坂崎成政)
坂崎道雲ゟ一角・清左衛門方へ之状、一からけニして相渡、遣候事、
この「お藤」は、郡宗保の女だとされる。細川家に郡家があるが、これは郡宗保との関係は見受けられないが、郡氏の名を残すために綱利代、三淵藤正の子・氏正をして初代となして創家されたものと理解している。
三斎が「お藤」に宛てた書状が残されている。松丸から祝儀に小袖を贈られたことに対する礼と健康を歓ぶ、三斎の返書である。
忠興が三齋と名乗ったのは元和六年(1620)だから、この死までの約9年の間の書状であることが判る。
三齋は隠居後は「中津城」に在り、お藤は小倉城の中の娘・古保の近くで生活していたものと思われる。
死の直前、病に伏した義母・松丸をおもい、松井興長は義母の好物である季節外れの「楊梅=やまもも」や「野苺」を調達するのに奔走している。
葬儀は六月廿九日に執り行われた。
そして興長は松丸の墓石にするため、丸い大きな石を探すのに又奔走することになる。
細川家の肥後入国後、松丸のお墓は松井家の墓地、熊本市子飼町・松雲院に移されている。
その後、八代の松井家墓地・春光寺に移されたものと思われるが、確認に至っていない。