津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■可惜人生を棒にふる

2023-06-29 06:16:27 | 徒然

 「可惜」は「惜しむべし」と読むのだろうが、正解は「あたら」である。「・・・人生を棒に振る」「・・・好機をにがす」などと使う。
「可惜」は「惜しい」「残念」の意である。
今回はその「可惜人生を棒にふった」細川一族のお二人を御紹介しよう。

     +ーーー忠隆ーー+ーーー忠恒 
     |    |
     |    +ーーー忠春ーーー忠重
     |

     +ーーー興秋
     |
細川忠興ーー+ーーー忠利ーー+ーーー光尚ーー+ーーー綱利==宣紀
                              |     |                 ⇧
          |      +ーーー利重ーーー宣紀
          +ーーー尚房
          |
          +ーーー元知

その1、「肥後の書家・陽明学者 北嶋雪山の生涯」という青潮社出版の社長・高野和人氏の著書がある。
    主人公となった北嶋三立(雪山)は300石取で、仲間と共に熱心な陽明学徒であった。
    徳川幕府が陽明学を異教となすと、寛文九年(1669)十月、藩主・綱利(27歳)の陽明学徒追放事件が勃発する。
    雪山を始め19名の有能な士が追放された。その処分に付いて諫言をしたのが忠利の末子で綱利にとっては叔父に
    あたる元知(29歳)である。南条元信(室・細川興秋女鍋)の養子となり、長岡元知と名乗り家老職を勤めていた。
    その諫言に対し綱利は「永蟄居」の処分を為したのである。翌年には屋敷まで召し上げている。
    処分が解かれたの元禄十年(1697)九月のことであり28年という長きに及んだ。これだけの長きに亘ると綱利の気分を相当損ねたものと思われる。
    元知室が米田是長女・吟であるため、嫡男・是庸は若干15歳で世襲家老・米田家(賜長岡姓)の五代目(求政を初代とし)の当主となった。
    父の永蟄居から8年、勝千代の成人を待っての綱利の計らいとも考えられる。

    熊本藩年表稿は「長岡監物の外孫三渕勝千代(実は長岡元知の嫡子)を監物の養子とし、監物を隠居させ、勝千代を長岡監物是庸と称させ家老に列す」と記す。
    是庸は寛文三年(1663)の生まれだから、父の永蟄居処分の頃は7歳である。
    どうやらこの時期三渕家に引き取られたらしいが、このことについては三渕家の系図では確認できない。


その2、綱利の継嗣・吉利が19歳で死去すると、綱利は徳川綱吉の側近・柳沢吉保の三男を養子にすべく奔走している。
     前にご紹介したようにこの企みは頓挫した。そこで弟(新田藩主)利重の次男・利武を養子と為した。これが宣紀である。
     正史に於いては伺えないが、細川右京(内膳)家資料集 に、綱利の継嗣に関するお身内のみが承知しておられたと思われる記事がある。

    それは、細川内膳家四代の忠重が藩主・綱利の後継争いに敗れ、綱利により隠居を強要されたとするものである。(31歳)
    そして次の藩主となった宣記(綱利弟・利重二男)により「押籠め」の処分がなされたという。
    30年にも及ぶその処分は解かれることもなく忠重は61歳で亡くなったが、内膳家の墓所(瑞巌寺)に埋葬する事も許されず、久本寺が墓所となった。
    又檀那寺である瑞巌寺にすでに埋葬されていた生母や奥方も改葬が指示され久本寺に移されたとされる。

    正式には表に出ない秘事を、あえて著者の菅(細川)芳生氏は内膳家の資料から明らかにされた。
    細川右京(内膳)家資料の著編者・菅(細川)氏は、綱利公の後継者として忠重を推す勢力があり、後継争いがあったとされる。
    そのことがもたらした結果として、隠居・押籠・内膳家墓地への埋葬の不許可に至ったものだと結論づけをされている。
    平成二十年八月菅氏のご尽力により瑞巌寺跡の内膳家墓地は改装され、忠重夫妻と生母のお墓は久本寺から移された。

    歴史の表に出てこない隠された真実は背筋をぞっとさせるものがある。

そんな二つの事件は、気持ちを陰鬱なものとさせるが、丁度その時期、越後騒動事件に連座して遠島(伊豆大島島流し)の処分を受けた小栗兵庫(美作弟)の三人の子、岡之助(8歳)、八之助(6歳)、六十郎(4歳)、小三郎(2歳)が細川家に預けられた。
延宝九年(1681=天和元年)七月のことである。竹の丸の御質屋に供をしてきた乳母らと共に押し込めとなり、八之助・小三郎は夭折、岡之助・六十郎は享保五年(1720)八月に至りようやく公儀のお許しが出た。39年の長きに亘る梗塞状態が解かれた。
上の二つの事件は丁度そんな状況の中に在る。公儀の処分だとは言え綱利はどういう気持ちで幼い子供たちの成長を見ていたのだろうか。
そして、このことは長岡元知・長岡忠重の処分にどう影響を与えたのだろうか。
怨念めいた処分にも思えるが、綱利・宜紀の心の底は伺うことは出来ない。

コメント
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