ガラシャ亡き後細川忠興の継室とでもいうべき立場にあった松丸殿は、寛永六年六月十九日に死去した。
この松丸殿附の老女少将なる人は安場仁左衛門の姑(夫人の母)で、安場仁左衛門妻の死後松丸の指示により少将の子分と為された。
松丸はそのことを三斎へ遺書し、三斎もまた少将へ後立を約したとされる。
仁左衛門は安場家の初代、3代目が一平で赤穂義士首領・大石内蔵助切腹に当リ介錯、10代目が 安場保和 「幼名一平、後保和と改め、咬菜軒と号す。横井小楠の門に入る。明治元年徴士内国掛並に東海道鎮撫総督府参謀に任ぜられ、膽澤縣(現今岩手県の中)および酒田縣(山形県の中)大参事となれり。又熊本県の権大参事となりて藩政改革及び廃藩置県の二大事業を完成せり。其後大蔵大丞に任じ、又特命全権大使に随行し欧米を視察し、帰朝後福島県令となり、また愛知県令に転ず。至る所治績嘖々たり。其後元老院議官に任じ、福岡県令となる。此の時三大治績を残し、一は九州鉄道創設、二は門司の築港、三は筑後川の改修大工事を竣工せし如き此なり。実に良二千石の称ありき晩年は貴族院議員に勅任せられ、又北海道長官となる。」
さてその「少将」とよばれた松丸殿附老女に関する記述は次の通り
一、安場仁左衛門尉登城にて被申候は、松丸殿ニ而召仕候少将と申仁、前廉仁左衛門尉ためニしうと
にて御座候処ニ、仁左衛門尉女房相果申候、其後松丸様御さいはんにて女房果候とも、仁左衛門
を子分ニ仕候へ之由被仰付、契約仕候、然処ニ、今度松丸殿被成御遠行砌、 三斎様へ御書置被
成被置候、持候而、少将中津へ被参候処、 三斎様被成御意候は、少将儀久敷奉公仕たるものゝ
可
儀も御やしないか被成間、〇得其意通被成 御意候ニ付、少将被申候は、仁左衛門尉と右之通契
約仕申候間、仁左衛門尉ニ懸り申度通被申上候ヘハ、ともかくも心次第ニ可仕■候、うしろ立ニ
は、 三斎様を持候へ之由被 仰付、罷帰候間、為御礼中津江致参上度由、仁左衛門尉被申候間、
一段可然候、其段式ア少殿へ申理、被参候へと申候ヘハ、はや右之通、式ア少殿へ申候ヘハ、尤
之儀ニ候間、早々参候而可然由被仰候、各へ茂此通化申入之由、被 仰ニ付、如此候由被申候也、