津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■迷君?汚名を重ねた綱利公

2023-06-28 06:07:31 | 歴史

 細川家家臣に「薮田氏」が在る。この薮田氏の祖は「柳沢市政れていた。
実は中学校時代のクラスメイトに同姓の女の子がいた。もう10数年前同窓会に出かけたらアメリカ在住だと聞いた。
そんなこともあり調べていく中で、市政(重守)なる人物が柳沢吉保の一族(女系外戚)であることが判った。
大和郡山の「柳沢文庫」にお尋ねして確信となった。又、福富真紀氏著「徳川将軍側近の研究」を御紹介いただいた。

なぜ、柳沢一族の薮田氏が細川家家臣となったのか?薮田氏は柳沢家の家老職を務める家柄だが、その二男が細川家家臣となり、柳沢家の取次役を務めたのであろう。
細川綱利は水戸家出身の奥方が延宝三年に亡くなると、水戸家とは関係が良いとは言えないかった柳沢吉保に接近、江戸では巷間「夜中越中」などと不名誉な綽名を付けられるなど、夜な夜な柳沢家に出かけては来客の世話などを勤めている。
(奥方の兄、松平頼重は元禄八年に、水戸光圀は元禄十二年に死去している。)

宝永三年四月、後を託すつもりの次男吉利が亡くなるという不幸を迎えると、綱利は柳沢吉保三男安基を養子に所望するという奇手に打って出た。吉保も了解したらしい。
ところが老中稲葉正往が「国許の家中は同心するのか、近親はいないのか、無縁の者の養子は御条目にたがう」として、反対したらしい。
福富氏著によると、正住はこの件に関し将軍や吉保の不興をかい失脚したと言う。正住は宝永四年に隠居している。
細川家と稲葉家との関係は、明智の血を通して春日局との懇意まで遡る大事な関係だが、綱利も罪なことをしたものだ。
綱利が弟・細川利重の二男宣紀を養子に迎えるのは其の直後である。しかし家督を譲ることはせず、また柳沢家に通うためか?、なかなか帰国せず、先にご紹介したように「鸚鵡籠中記」に、綱利が帰国せぬのは、「帰ればお国で押込に遭うからだろう」との噂が書かれる有様である。
宝永六年一月将軍綱吉が死去すると、柳沢吉保も力を失い同年六月には失脚隠居、又生母・清高院も死去する。
それでも藩主の座にしがみついて不名誉な噂が流れる中、綱利の側近の江戸家老・木村半平が綱利の居間に寝ずの番で二日に亘り諫言を重ね、ようやく隠居したとされる。
名君と呼ぶには大いに躊躇する人物だが、「綱利公のお陰で」と仰るお宅が多い事も事実である。

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