津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和九年」を読む (1)

2023-06-09 10:39:50 | 先祖附

忠興(三斎)文書-元和九年

355、正月二日書状(三斎・忠利共ニ在江戸)
 ・式紙ニツキ片山宗哲室ニ問ハン

356、正月廿護日書状
 ・花入ノ鑑定、
 ・高価ナラバ不用

357、二月十四日
 ・眩暈癒ラザル為剃髪ナラズ
 ・少時モ頭巾ヲ放得ザル為来客ヲ断ル

358、二月十九日
 ・酒井忠勝ヲ招クニツキ相客ノ人選ヲ諮ル

359、三月四日書状
 ・病中ノ中山照守ヨリ清心圓ヲ所望セラル、モシ今大路道三ノ薬ニ當ル時清心圓服用ノ故ト取沙汰アラン事ヲ憂ウ

360、三月十九日書状
 ・立花宗茂ヨリ茶入レ贈与之申入アリ
 ・世上ノ取沙汰ニナラバ一興ナリ

361、三月廿二日書状
 ・立花宗茂へノ返書ノ指示

362、三月(日未詳)書状
 ・立花宗茂ヘノ懇意、満足

363、四月五日書状
 ・妻木之徳ヨリ本多忠政来訪ノ意ヲ傳ヘラル
 ・小笠原忠知(忠利義兄弟)及ヒ相客ヲ招キタシ

364、五月三日書状
 ・加々爪忠澄ヨリ稲葉一通女(忠利孫女)ノコトヲ尋ネラル

365、五月(日未詳)書状
 ・略

366、(月日未詳)
 ・略

367、六月七日書状
 ・為見舞(丹後紬)令満足、
 ・氣相少好ユヘヤガテ上洛スベシ

 (三斎江戸出立、上洛)

368、六月廿日書状
 ・上洛ノ途中池鯉鮒ニ在リ        日本橋から330㌔、当時では10日の日程を擁したとされる、
 ・宿ヲ烏丸通リニ取ル、知行取ノ家来八九人ヲ聖護院ニ置キタシ

369、六月廿二日書状
 ・亀山ニ着ス
 ・(秀忠六月八日二条城入)廿五日参内

370、六月廿三日書状
 ・甲賀郡石部ニ在
 ・廿二日、土山ニテ書状ヲ披見ス
 ・明日聖護院ニ参著(6月24日京都到着す)

371、七月廿一日
 ・忠利之小笛・太鼓打之者、今夕此方へ廻附ヲ乞ウ

372、八月五日書状
 ・加々爪忠澄ニ所望ノ石場ヲ遣スベシ

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■天正十年六月九日光秀書状

2023-06-09 06:53:59 | 史料

            

 明智光秀による織田信長弑逆事件「本能寺の変」が起きたのは天正十年(1582)の六月二日、上記書状は有名な光秀が細川藤孝・忠興父子に味方をするように要請した書状である。
日付は六月九日であり、事件勃発から七日が経過している。私が不思議に思うのは、娘(玉=のちガラシャ)の婿に対して助力を頼むのは当然のことだが、いかにも遅すぎる。この時間の経過は何を意味しているのだろうか。
事件の一報を得て忠興は元結をきったというが、それは書状の日付の日か?翌日か?、三成はそのことを聞いて初めての書状としてこの書状を発したとは思い難い。
数度のやり取りがあったのではないか。何故その書状は残されていないのか?紛失したとも思えないから故意に処分されたのかもしれない。
研究者の方々の研究知見に加えて、作家・小説家は言うに及ばず、市井の好事家たちの私見も入交り諸説紛々、この事件の真相のほどはまだまだ闇の中にある。

 本能寺の変から441年の月日が流れた。

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