西洞院時慶はその著「時慶記」の中で、豊臣秀吉室・高台院(北政所・ねね)の執事役を務めた高蔵主についてかなり記載している。一寸異常な感じがして、二人の関係がどのようなものであるのか、大変気になっていた。高蔵主はその注書きに「川添氏女」と書かれている。一方、時慶の室は川添彦右衛門の養女であることが分った。ということは室の義姉妹、若しくは伯母にでも当たるのだろうか。それで話が飲み込める。西洞院時慶はたびたび高台院を訪れ見舞いしている。
当方サイトのBBSが、アダルト広告にジャックされてしまいました。玄関を閉めたのですが、ブックマーク登録をしていただいている皆様には、大変ご迷惑をお掛けしておりますことに、お詫びを申し上げます。いささか弱気になり、BBSは閉鎖してしまおうかとも、考えておりますがこのような「馬鹿共」の為に撤退するのは、なんとも口惜しいのです。技術的なことで解決する手段があるのでしょうか。64爺には、いささか荷が重過ぎ、如何ともし難い状態です。色々な皆様から励ましをいただき、本来であればBBSで御礼を申し上げるべきところですが、この様な仕儀と相成りお許しいただきたく存じます。
わが掲示板「瑣事奏論」は「2」で、いかがわしいサイトの攻撃を受けて止む無く中止。「3」に切り替えてまだ日も浅いのだが、又やられた。映像が貼り付けられるからどうしようもない。今日は、東京のS氏からメールをいただいて判明、応急策として機能をストップした。どうしようかと頭が痛い。
メールのほうも同様だが、アドレスを公開している以上仕方がないのかと、ひたすら受信拒否の作業をしている。
馬鹿野郎どもが、にたにた笑っているかと思うと、無性に腹立たしい。
メールのほうも同様だが、アドレスを公開している以上仕方がないのかと、ひたすら受信拒否の作業をしている。
馬鹿野郎どもが、にたにた笑っているかと思うと、無性に腹立たしい。
調べものをしようと思って、肥後古城物語(荒木栄司著・熊日選書)を久し振りに引っ張り出したら、古い栞が挟まっていた。英語で何か書いている。
Haply the summmer grasses are
A relic the warreors′dream
しばしにらめっこをして思い出した。
芭蕉の有名な句、「夏草や 強兵共が 夢の後」の英訳文である。
裏に「チェンバレンの芭蕉と俳句から」と注記しているから間違いないが、そんな高尚な本を読んだ記憶がない。出所がよく分らないが・・・まあいい。
さて、この文章を読んだ異人さんたちは、十七音節の短文に秘められた深い意味合いをどれだけ理解できるのだろうか。文学におけるノーベル賞は、翻訳者の能力によるものが大きいといわれる。川端康成のノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」が、英訳されているが、日本人でさえ即座には理解できない文章が、どのように翻訳されどう理解されているのか・・・興味深い。
しばしそんな事を考えていたら、「夢のあと」ならぬ「夢の中」にさまよい入ろうとしていた。
Haply the summmer grasses are
A relic the warreors′dream
しばしにらめっこをして思い出した。
芭蕉の有名な句、「夏草や 強兵共が 夢の後」の英訳文である。
裏に「チェンバレンの芭蕉と俳句から」と注記しているから間違いないが、そんな高尚な本を読んだ記憶がない。出所がよく分らないが・・・まあいい。
さて、この文章を読んだ異人さんたちは、十七音節の短文に秘められた深い意味合いをどれだけ理解できるのだろうか。文学におけるノーベル賞は、翻訳者の能力によるものが大きいといわれる。川端康成のノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」が、英訳されているが、日本人でさえ即座には理解できない文章が、どのように翻訳されどう理解されているのか・・・興味深い。
しばしそんな事を考えていたら、「夢のあと」ならぬ「夢の中」にさまよい入ろうとしていた。
本を読みながら、その内容で「ガハハ・・」と笑う事は滅多に無かろう。
久し振りに取り出した、藤沢周平氏のあるエッセーを見たとたん、「ガハハ・・」を、やってしまった。氏のお母さんは、大変テレビがお好きで、野球等も御覧になったという。「旦那一塁とはなんだ?」そのうちに旦那は二塁に進んだという。「それは旦那じゃなくて、ランナーだよ」と氏が解説したという・・・落語のような話、ガハハである。
漫才の島田洋七氏のお母さんも、中々面白い人だったらしい。その生き様は島田氏の手により小説になり、そして映画(佐賀のがばいばあちゃん)になった。彼はお母さんをだしに一儲けしたようだが結構なことだ。兎角暗くなりがちな貧乏生活も、このお母さんをして元気に乗り越えられたのだろう。洋七氏のお母さんの話もまたガハハものである。
久し振りに取り出した、藤沢周平氏のあるエッセーを見たとたん、「ガハハ・・」を、やってしまった。氏のお母さんは、大変テレビがお好きで、野球等も御覧になったという。「旦那一塁とはなんだ?」そのうちに旦那は二塁に進んだという。「それは旦那じゃなくて、ランナーだよ」と氏が解説したという・・・落語のような話、ガハハである。
漫才の島田洋七氏のお母さんも、中々面白い人だったらしい。その生き様は島田氏の手により小説になり、そして映画(佐賀のがばいばあちゃん)になった。彼はお母さんをだしに一儲けしたようだが結構なことだ。兎角暗くなりがちな貧乏生活も、このお母さんをして元気に乗り越えられたのだろう。洋七氏のお母さんの話もまたガハハものである。
昨日のTVでは、「好きな偉人ベスト100」とかが、放映されたみたいだが見ていない。残念とも思わないが、「信長」はどうだったのだろうと言う興味はある。好きという範疇の人では無いのかもしれない。敬愛してやまない藤沢周平氏は、「きらいだ」と仰る。その業績は評価した上で、理由は只一つ「殺戮」だと言い切られる。氏のエッセー「ふるさとへ廻る六部は」の中の「信長ぎらい」に書かれている。いろんな著者による、信長に関しての著書は沢山有るが、著者は「好き」「嫌い」にどう折り合いを着けているのだろうか。私にどうだと問われると、二者択一では返事が出来ず、藤沢先生が言われるところの「業績」を評価して、ぶつぶつ言い訳をするのだろう。山崎駿氏の「信長」も、大変好意的に信長をとらえているが、氏に「好きか、嫌いか」を問えば、同じなのではないかと思うのだが。歴史サイトを覗くと、男女を問わず「信長大好き人間」が随分多いことに気付く。藤沢周平氏から「どうだ」と問われれば、多分皆言葉に詰まってしまうのだろう。そんな信長だが、偉人であることは間違いなかろう。
ゴールデンウイークは図書館から借りた、二冊の「時慶記」の読破に費やした。解説がついている訳でもない、いわゆる翻刻本だが、なかなか面白い。第一巻は天正十五年・十九年そして文禄二年、第二卷は慶長五年と七年である。本願寺蔵本とあるが、間が飛んでいるのは何故なのか、これらについても説明がない。
慶長五年には地震が随分多いことに気がついて、先のブログとなった。
加藤清正臣下津棒安と時慶卿との交流は、「時慶記にみる下津棒安」としてサイトにアップした。気になって仕方がないのが、秀吉室高台院の執事役を務めた孝蔵主の事である。
時慶が孝蔵主の行動に、大変気を払い心配している様子が伺える。「何なんだ」という素朴な疑問が湧いて、これはご存知の方に、教えていただきたいと思ってBBSに書き込んだ。いろいろ気に成る事があるが、あと数日の貸し出し期間では結論は出ない。
慶長五年には地震が随分多いことに気がついて、先のブログとなった。
加藤清正臣下津棒安と時慶卿との交流は、「時慶記にみる下津棒安」としてサイトにアップした。気になって仕方がないのが、秀吉室高台院の執事役を務めた孝蔵主の事である。
時慶が孝蔵主の行動に、大変気を払い心配している様子が伺える。「何なんだ」という素朴な疑問が湧いて、これはご存知の方に、教えていただきたいと思ってBBSに書き込んだ。いろいろ気に成る事があるが、あと数日の貸し出し期間では結論は出ない。
慶長元年(1596)の大地震では伏見城が崩壊している。謹慎中の加藤清正が駆けつけて、そのおかげで(?)謹慎を解かれた話は有名だ。別府湾の瓜生島もこの時海中に姿を消したとされている。
慶長五年の「時慶記」をよむと、地震の記録が沢山見える。慶長元年の記憶がトラウマになっていたのかも知れない。1/20・此暁地震動■、1/23・巳刻ニ地震動候、2/9・寅刻斗ニ地震動、裏ノ堀水引、土ヲ上サセ候。水の濁りが取れなかったのだろうか、12日新たに井戸を掘って要る。2/15・丑刻斗ニ地震動、裏ノ堀ノ水引故ニ又サラエサセ候。4/27・地震申刻ニ動、又モ夜ニ。6/24・地震、卯刻、夕立、申刻雷鳴。6/27には地震には関係なかろうが、「酉刻ニ光物南カラ北へ飛由申候」とある。7/10・未刻地震大動・・・晩ニ又少地震、この日の記録には「北政所霍乱」とある、地震のせいだろうか。7/18・細川忠興室ガラシャが自裁。翌7/19・この日伏見城は「二の丸焼払」ている。その日の「申刻地震大動」、時慶記の著者西洞院時慶は翌日、北政所を見舞っている。この時期は天下騒乱の中である。七月下旬市中に鉄炮の音が夥しく、8/1伏見城が落城した。8/3・地震辰下刻、雷鳴夕立ハ申刻。8/24・地震巳刻又戌刻両度鳴。翌25日「岐阜ノ儀合戦負ノ由」とある。時慶の立場が伺える。8/29地震両度巳刻申刻也。9/17・金吾(小早川秀秋)手返ニ付而天下騒動、関ヶ原戦に決着がついた。
9/22・地震未刻に動、翌23日石田三成、安国寺恵瓊が捕縛される。そんな中でも揺れる揺れる、9/26・地震巳刻ニ動。9/28・巳刻地震動。10/1三成、安国寺、小西行長処刑。11/20・初夜ニ地震大動。11/30・暁地震。慌しかった慶長五年は、このような中新年を迎えることになる。細川家は、忠興室が自裁し、幽齋は田辺城に籠城、松井佐度は九州にて大友と激戦、忠興らは数々の功名を挙げ豊前国を賜り、年の瀬慌しく新しい領国へと旅立っていった。
残念ながら、時慶記は慶長六年の項がない。しばらくは地震も続いたのだろう。
慶長九年(1605)京大阪、慶長十六年(1611)三陸でM8程度と考えられる、大きな地震が起こっている。元和元年(1619)には、熊本においても八代の麦島城が崩壊する大きな地震があった。寛永二年(1625)の地震では、熊本城の火薬倉が崩壊大爆発で石垣も壊れたという。地上で天下分け目の大騒乱が起きていた時、地下に於ても鯰共が覇権争いをしていたのだろうか。
慶長五年の「時慶記」をよむと、地震の記録が沢山見える。慶長元年の記憶がトラウマになっていたのかも知れない。1/20・此暁地震動■、1/23・巳刻ニ地震動候、2/9・寅刻斗ニ地震動、裏ノ堀水引、土ヲ上サセ候。水の濁りが取れなかったのだろうか、12日新たに井戸を掘って要る。2/15・丑刻斗ニ地震動、裏ノ堀ノ水引故ニ又サラエサセ候。4/27・地震申刻ニ動、又モ夜ニ。6/24・地震、卯刻、夕立、申刻雷鳴。6/27には地震には関係なかろうが、「酉刻ニ光物南カラ北へ飛由申候」とある。7/10・未刻地震大動・・・晩ニ又少地震、この日の記録には「北政所霍乱」とある、地震のせいだろうか。7/18・細川忠興室ガラシャが自裁。翌7/19・この日伏見城は「二の丸焼払」ている。その日の「申刻地震大動」、時慶記の著者西洞院時慶は翌日、北政所を見舞っている。この時期は天下騒乱の中である。七月下旬市中に鉄炮の音が夥しく、8/1伏見城が落城した。8/3・地震辰下刻、雷鳴夕立ハ申刻。8/24・地震巳刻又戌刻両度鳴。翌25日「岐阜ノ儀合戦負ノ由」とある。時慶の立場が伺える。8/29地震両度巳刻申刻也。9/17・金吾(小早川秀秋)手返ニ付而天下騒動、関ヶ原戦に決着がついた。
9/22・地震未刻に動、翌23日石田三成、安国寺恵瓊が捕縛される。そんな中でも揺れる揺れる、9/26・地震巳刻ニ動。9/28・巳刻地震動。10/1三成、安国寺、小西行長処刑。11/20・初夜ニ地震大動。11/30・暁地震。慌しかった慶長五年は、このような中新年を迎えることになる。細川家は、忠興室が自裁し、幽齋は田辺城に籠城、松井佐度は九州にて大友と激戦、忠興らは数々の功名を挙げ豊前国を賜り、年の瀬慌しく新しい領国へと旅立っていった。
残念ながら、時慶記は慶長六年の項がない。しばらくは地震も続いたのだろう。
慶長九年(1605)京大阪、慶長十六年(1611)三陸でM8程度と考えられる、大きな地震が起こっている。元和元年(1619)には、熊本においても八代の麦島城が崩壊する大きな地震があった。寛永二年(1625)の地震では、熊本城の火薬倉が崩壊大爆発で石垣も壊れたという。地上で天下分け目の大騒乱が起きていた時、地下に於ても鯰共が覇権争いをしていたのだろうか。
端午の節句、かっては邪気祓のために、菖蒲や蓬を軒端に投げ上げる風景がみられたが、最近はそんな風情ある風景をみることも無く一寸寂しい。昨日所用の帰り道、乳母車を押す、若いお母さんに手を引かれた可愛い女の子の髪に、菖蒲のリボンが飾られているのをみて思わず声をかけた。「リボンが可愛いねー」女の子は「ほら○○くんも・・」と乳母車を指差す。弟君が乗っていて、菖蒲の鉢巻をしている。
通りがかりの人も微笑を残して通りすぎて行く。若いお母さんなのに素晴らしいことだ。女の子の頭を撫ぜ、弟君の寝顔を見ながら「お元気でね」と手をふって分かれた。二三歩歩を進めたところで、「バイバイ」と女の子の元気な声が聞こえた。振り返って手をふりながら、涙が出そうになって思わず天を仰いだ。涙腺が緩みっぱなしの最近の私である。
通りがかりの人も微笑を残して通りすぎて行く。若いお母さんなのに素晴らしいことだ。女の子の頭を撫ぜ、弟君の寝顔を見ながら「お元気でね」と手をふって分かれた。二三歩歩を進めたところで、「バイバイ」と女の子の元気な声が聞こえた。振り返って手をふりながら、涙が出そうになって思わず天を仰いだ。涙腺が緩みっぱなしの最近の私である。
かっての首相村山富一氏をテレビで拝見しては、「眉毛をそろえられては・・」と思っていた。ところが最近、自分自身が村山富一的現象に襲われて、愕然としている。
「つんく」なる歌手が登場して、眉毛を細く整えたりしていたが、甥ッ子が真似をして小さなはさみで整えたりしている。「男がすることじゃーないぞ。止めとけ」などと説教した。私の眉は、「刷毛で刷いたような」とは程遠く、一部分にこんもりしていて眉尻みたいなものがない。その中に1.2本「富一さん」が発生した。
慌てて、甥ッ子が使っていたような小さな鋏と、手鏡で剪定に及んだ。
剪定しても「ひこばえ」の如く時々発生してくる。先日床屋に行ってそんな話をしたら、「眉毛、鼻毛、耳毛を用心してくださいよ。これがあるともてませんよ」と、貴重な助言を貰った。最近は洗顔の後、顔を左右上下にふりまわして確認に忙しい。
「つんく」なる歌手が登場して、眉毛を細く整えたりしていたが、甥ッ子が真似をして小さなはさみで整えたりしている。「男がすることじゃーないぞ。止めとけ」などと説教した。私の眉は、「刷毛で刷いたような」とは程遠く、一部分にこんもりしていて眉尻みたいなものがない。その中に1.2本「富一さん」が発生した。
慌てて、甥ッ子が使っていたような小さな鋏と、手鏡で剪定に及んだ。
剪定しても「ひこばえ」の如く時々発生してくる。先日床屋に行ってそんな話をしたら、「眉毛、鼻毛、耳毛を用心してくださいよ。これがあるともてませんよ」と、貴重な助言を貰った。最近は洗顔の後、顔を左右上下にふりまわして確認に忙しい。
細川忠利に殉死した者の中に、田中意得がいる。六十三歳でお伴をしたというのには訳がある。忠利は幼少の頃(文禄三年~慶長三年)愛宕山に入り学文(問)にいそしむが、意得がそのおり御側に仕えてた。その故をもって後、豊前にて召し出されており、その故をもって老いの身ながら殉死した。
この意得の祖母が「阿菊物語」を著している。この著は、淀君に仕えた菊(二十歳)が見た、大阪城落城当日の城内の有様が書かれている。この本が著されたのは後年であり、その内容からも菊からの話を聞き書きしたものであることが分る。
武田栄(永)翁の消息も見える。豊臣秀次に加担したとして、細川忠興は秀吉から(実は石田三成)切腹の沙汰が取り沙汰されたとき、その会議の有様を松井佐度(寄之)に知らせようと、心配りをしたのが永翁である。松井佐度は叔父に当たる。
落武者に金を強要され、竹ながし二本(金の延べ棒、約15両ほどとか)を渡したり、金の瓢箪の馬印が撃ち捨てられていることを「御恥辱」と歎いたり、悲惨なる有様が記されていて、そこに居た人にしか分り得ぬ臨場感が胸を打つ。
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/nihon/okiku.htm 「おきく物語」
この意得の祖母が「阿菊物語」を著している。この著は、淀君に仕えた菊(二十歳)が見た、大阪城落城当日の城内の有様が書かれている。この本が著されたのは後年であり、その内容からも菊からの話を聞き書きしたものであることが分る。
武田栄(永)翁の消息も見える。豊臣秀次に加担したとして、細川忠興は秀吉から(実は石田三成)切腹の沙汰が取り沙汰されたとき、その会議の有様を松井佐度(寄之)に知らせようと、心配りをしたのが永翁である。松井佐度は叔父に当たる。
落武者に金を強要され、竹ながし二本(金の延べ棒、約15両ほどとか)を渡したり、金の瓢箪の馬印が撃ち捨てられていることを「御恥辱」と歎いたり、悲惨なる有様が記されていて、そこに居た人にしか分り得ぬ臨場感が胸を打つ。
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/nihon/okiku.htm 「おきく物語」
前段がある。秋山駿には「魂の言葉で語れ・信長と日本人」と云う本(著作ではない)がある。文芸評論家・富岡幸一郎氏との対談の内容が文章化されたものであり、一人称の語り口調で本音が書かれている。養老猛司氏の「バカの壁」などもやりだまにされ、「自分というものにあくまで固執して、その関心の範囲内で他人など問題にしないで物事を追求することの何処が悪いのか」とかみつく。そのことは信長への評価に繋がっているようだ。
「信長というのは、日本人にはめずらしい男で、戦争を現実だけから学んだんだ。余計な教養なんかは要らない、自分自身の現実だけから学んだんだよ」とも云う。
堅苦しい文芸評論など読む気になれないが、この本はなかなか面白い。☆☆☆
秋山もまた、自分に固執して「信長」に挑戦している。西洋の古典などを引き合いに出し、「西洋的天才信長」と紹介する。
野間文芸賞や毎日出版文学賞受賞作だというが、ご尤もと納得する力作である。
「信長というのは、日本人にはめずらしい男で、戦争を現実だけから学んだんだ。余計な教養なんかは要らない、自分自身の現実だけから学んだんだよ」とも云う。
堅苦しい文芸評論など読む気になれないが、この本はなかなか面白い。☆☆☆
秋山もまた、自分に固執して「信長」に挑戦している。西洋の古典などを引き合いに出し、「西洋的天才信長」と紹介する。
野間文芸賞や毎日出版文学賞受賞作だというが、ご尤もと納得する力作である。
猫の額ほどの我が家の庭だが、この時期いろんな雑草が顔を出して、草むしりが一仕事になる。今年は片喰(かたばみ=酢獎草)が異常発生して頭を抱えている。「なぜこんなに・・・」とよくよく考えてみたら、もしそうなら大失敗だったことが頭に浮かんだ。去年草むしりをした際、抜いた雑草をビニール袋に詰め込んで、堆肥にしようと考えた。コーヒーや茶殻を入れたり、糠を入れたりして放っておいたら立派な堆肥が完成した。これを播いたり、鋤込んだりして「来年はいい花がつくぞ」などと悦に入っていたらこのざまだ。種子は死んでいなかった。
片喰はいま、種子を一杯詰め込んだ袋を沢山つけて、異常繁殖中。移植コテをつかって袋がはじけぬように注意しながら、今度は捨てる為にビニール袋に一つ一つ丁寧に収めていく。手をやかせやがって・・・・
そんな繁殖力が愛されたのだろう。片喰紋とか剣片喰紋などという家紋が、武家の間で使われた。徳川家も元々は片喰紋であったらしい。紋帳を見ると、そのバリエーションの多さにも驚かされるが、デザイン的にも大変優れていて素晴らしい。先人の豊かな表現力に敬意を表しながら小さな花や葉っぱを眺めていると、あんまりむきになって草むしりすることも無いかと思ったりもする。
片喰はいま、種子を一杯詰め込んだ袋を沢山つけて、異常繁殖中。移植コテをつかって袋がはじけぬように注意しながら、今度は捨てる為にビニール袋に一つ一つ丁寧に収めていく。手をやかせやがって・・・・
そんな繁殖力が愛されたのだろう。片喰紋とか剣片喰紋などという家紋が、武家の間で使われた。徳川家も元々は片喰紋であったらしい。紋帳を見ると、そのバリエーションの多さにも驚かされるが、デザイン的にも大変優れていて素晴らしい。先人の豊かな表現力に敬意を表しながら小さな花や葉っぱを眺めていると、あんまりむきになって草むしりすることも無いかと思ったりもする。
日本エッセイスト・クラブ編の、87年版のベスト・エッセイ集をインターネットで安く手に入れた。59編のエッセイが紹介されているが、錚々たるお歴々の名前が並んでいる。毎年ではないが、「とり」をとった人の作品名が、その年のエッセイ集の書名に使われていることが多い。87年のとりは出久根達郎氏であり、作品名は「おやじの値段」。読み進んで行くうちに、この作品はすでに読んでいることに気がついた。おかしいなと思って本棚をひっくり返すと、氏のエッセー集「思い出そっくり」の中にあった。改めてベスト・エッセイ集を眺めてみたら、氏の紹介に「芳雅堂」主とある。なるほど、なるほど・・・直木賞受賞(93年・佃島ふたり書房)以前にこんな処に顔を出されていたのだ。
吾がサイトでもご紹介しているK氏は、「警視総監賞」に続いての掲載を狙って頑張っておられる。実はその結果を知っているのだが、伏せておこう。
その洒脱な文章は、出久根氏に相通ずるものがある。
吾がサイトでもご紹介しているK氏は、「警視総監賞」に続いての掲載を狙って頑張っておられる。実はその結果を知っているのだが、伏せておこう。
その洒脱な文章は、出久根氏に相通ずるものがある。
水俣病患者の方たちの行動の先頭に、かならず翻る「怨」の文字を染め抜いた幟がある。この幟が下ろされる事はあるのだろうかといつも考える。水俣病が公式に確認されてから、今日でちょうど五十年を迎える。患者の皆さんの心の傷は癒されること無く、行政の不作為が続き、原因企業チッソは収益優先の「分社化」が囁かれている。
かって水俣市は、「水俣病」という名称の変更を画策したことがあった。付きまとう暗いイメージを払拭したいという気持ちがあっての事だろう。負の遺産をばねに、環境再生の街づくりに励む水俣は、穏やかな町に替わりつつある。しかしながら一方では、「怨」の幟が下ろされない現実がある。最高裁判決にそっぽを向く行政は何を考えているのか。苦海の水底は沈黙し、しかし苦々しく眺めているのだろう。
かって水俣市は、「水俣病」という名称の変更を画策したことがあった。付きまとう暗いイメージを払拭したいという気持ちがあっての事だろう。負の遺産をばねに、環境再生の街づくりに励む水俣は、穏やかな町に替わりつつある。しかしながら一方では、「怨」の幟が下ろされない現実がある。最高裁判決にそっぽを向く行政は何を考えているのか。苦海の水底は沈黙し、しかし苦々しく眺めているのだろう。