細川忠利に殉死した者の中に、田中意得がいる。六十三歳でお伴をしたというのには訳がある。忠利は幼少の頃(文禄三年~慶長三年)愛宕山に入り学文(問)にいそしむが、意得がそのおり御側に仕えてた。その故をもって後、豊前にて召し出されており、その故をもって老いの身ながら殉死した。
この意得の祖母が「阿菊物語」を著している。この著は、淀君に仕えた菊(二十歳)が見た、大阪城落城当日の城内の有様が書かれている。この本が著されたのは後年であり、その内容からも菊からの話を聞き書きしたものであることが分る。
武田栄(永)翁の消息も見える。豊臣秀次に加担したとして、細川忠興は秀吉から(実は石田三成)切腹の沙汰が取り沙汰されたとき、その会議の有様を松井佐度(寄之)に知らせようと、心配りをしたのが永翁である。松井佐度は叔父に当たる。
落武者に金を強要され、竹ながし二本(金の延べ棒、約15両ほどとか)を渡したり、金の瓢箪の馬印が撃ち捨てられていることを「御恥辱」と歎いたり、悲惨なる有様が記されていて、そこに居た人にしか分り得ぬ臨場感が胸を打つ。
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/nihon/okiku.htm 「おきく物語」
この意得の祖母が「阿菊物語」を著している。この著は、淀君に仕えた菊(二十歳)が見た、大阪城落城当日の城内の有様が書かれている。この本が著されたのは後年であり、その内容からも菊からの話を聞き書きしたものであることが分る。
武田栄(永)翁の消息も見える。豊臣秀次に加担したとして、細川忠興は秀吉から(実は石田三成)切腹の沙汰が取り沙汰されたとき、その会議の有様を松井佐度(寄之)に知らせようと、心配りをしたのが永翁である。松井佐度は叔父に当たる。
落武者に金を強要され、竹ながし二本(金の延べ棒、約15両ほどとか)を渡したり、金の瓢箪の馬印が撃ち捨てられていることを「御恥辱」と歎いたり、悲惨なる有様が記されていて、そこに居た人にしか分り得ぬ臨場感が胸を打つ。
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/nihon/okiku.htm 「おきく物語」