津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

正保二年極月六日・松井父子の書状

2008-10-23 18:04:31 | 歴史
 三齋が亡くなった日(十二月二日)の直後の八代の状況を、松井興長・寄之父子は連名で細川光尚側近の林外記宛てに書状を発している。「松江城秘録」に収められたこの文書からは、松井父子と三齋及びお付き衆との間に、しっくりしない状況があった事を伺わせる。

                     謹而言上仕候
一、三齋様御逝去ニ付佐渡守儀監物ニ申候而、去三日ニ熊本罷立四日之朝松江参、長岡河内・坂
   田与左衛門・志方半兵衛所へ使者遣、三齋様御煩おもり申候義候ハヽ監物とかハり御見廻可申
   と存候處ニ、不及それニ候由ニて則是より罷帰申候使者遣候へハ、河内・与左衛門も佐渡宿へ罷
   越ニ付両人ニも逢申候 替儀も無御座いつれも前髪之儀又御供仕者共御葬禮儀なと江戸へ奉伺
   なとの儀計物語仕罷帰候 佐渡ニ茂登城仕候様ニと河内・与左衛門申越候へ共佐渡申候ハ
   三齋様常ニいきとをりつよく御座候段能々奉存候間、御逝去被成候とても登城ハ仕ましきと申候
   而登城不仕候

一、式部少儀も三齋様御気色悪敷通申参ニ付、去二日ニ八代ニ罷越候 道中ニ而乗物ニゆられ申故
   候哉気色悪敷御座候ニ付、登城不相成松江ニ宿を仕罷在御見廻ニ参上仕通、河内・与左衛門・
   半兵衛所へ申遣候間ニ最早御逝去被成ニ付気色をつくろひ候て暮方ニ監物と同道仕致登城候
   河内・与左衛門相易儀をも不申、御病中之御様躰なとを申、又今度高桐院け御暇乞時被仰置共
   御座候 河内を被召候て被仰置候 与左衛門・半兵衛へも右之通申渡候へと御意にて則御前に
   て申渡候通河内申候 尤其座敷ニ与左衛門・半兵衛居申候而、両人ニ申つけ候が両人何と存候
   哉 しかと返事不仕候 河内申候ハ高桐院を証拠ニと被思召候哉高桐院御前二被召置右ノ様子
   被仰との物かたりニ而御座候 被仰置候様躰何とも不申間々三齋様被仰候■御逝去被成候ハ御
   骨ハ大徳寺ニて高桐院へ指上御秘蔵之石燈爐御座候間それを御こツの上ニ被置候様ニと日比高
   桐院へ御約定ニ而御座候つる間、其分ニ可仕と存なとの物かたり仕候 右之石燈爐者去々年御
   覧大徳寺ニ御遣被置被成様承候被仰置候様子物かたりの仕様殊外御正気ニ御座候なとヽの申
   様ニ此節まても此方より申上候ハ御老忘故哉御合点立■手候様ニ御座候へ共あなたより被思召
   寄被仰儀ハいかにも御正気ニ御座候つるなとヽ物かたりの躰、今度被仰置候様子、先日佐渡女
   房共より言上仕八代より参状之通必定之様ニ被存候 佐渡ニハ被仰置候儀共曽而不申候
   式部少承物かたり之様子河内口ふり書状ニ者難調御座候 兎角様子如何敷様ニ承候
   式部少江其御死骸奉見候様ニと申候處、式部少申候ハ私儀者近年御前悪敷御座候つる御逝去
   被成候とても御死骸を奉拝儀いかヽ敷其上奥ニ被成御座由候處おくへ参候儀も難成儀ニ候
由押
   返申候而不奉拝候 監物・式部少参候儀幸之事候間ちと談合も仕度儀申候由申候間、式部少申
   候者殊外気相悪敷か様ニ差発候得者目まひ申候間、先可罷帰由申候而罷立候 監物ニ者談合仕
   度儀御座候間相待候様ニと河内申候而跡ニ留置申候 其以後之儀ハ何とも不存候、其後監物式
   部少ニ申候ハ相易儀茂無御座、八代衆前髪之儀御葬禮之儀又二三日ハ日柄悪敷二付御死骸其
   侭奉置候儀申候由御座候 河内物語之■茂殊外気相悪敷御座候つる間、前後可有御座と奉存候
   事

  ■忠興周辺の人々と、松井親子・監物などの本藩の人々との気まずい空気が伝わってくる。
    もう少々続きが有るのだが、本日はこれまで・・・・なんだか気分が晴れませんねー


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上関というところ

2008-10-23 13:39:26 | 徒然
 つい二三日前、三齋が上関から豊後の竹田津へ舟で帰ったという文章を読んだ。「下関があるから上関もあるんだ」という位の想いだった。
(熊本の北部に南関があり、福岡県側に北関があるという具合かと・・)
昨日のヤフー・トピックスに「 中国電力原発 山口・上関町での計画、知事が埋め立て許可」という見出しを見つけて、ひょっとしたら?と慌てて読んでみた。まさしく三齋が舟泊りした上関である。我が先祖が住まいした下松に程近い。かっての穏やかな島が、時代の最先端で騒がしいようだ。下松や上関を含め、瀬戸内の海をいつか海路で尋ねてみたいと思っているのだが、熊本の長洲から佐賀の諫早までのフェリーに船酔いする私だから、ちょっと無理か・・? 
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寿限無やら般若心経やら

2008-10-22 17:40:08 | 徒然
 何故か高校の同級生の名簿をそらんじている。一人も欠ける事は無い。落語の「寿限無」や「般若心経」等も何とかいける。平家物語の冒頭はすっかりいけない。今何とかがんばって暗唱し様と思っているのが、天文頃からから明治に至る年号だ。いわゆる「近世」代の年号だが、これがなかなか覚えられない。私のPCの左横に、年号表が鎮座している。「干支--年号--西暦」とともに、改元の日付や閏月などが表記してあり、大変重宝している。現在の私はといえば、「正徳?・・ええと・・どこだ・・?」といった具合で、見つけ出すのに時間が掛かって仕方がない。最近は「般若心経」も怪しくなってきたが(使うことが無いですからねー)、脳細胞が音を立ててなくなっていく66爺の無謀な計画である。妻や息子がいない時間を見計らって、ぶつぶつやっているのだが、難しい。・・・それでもやるのだ・・・ボケ防止にもよかろうと思う所以だ。
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治部左衛門家「先祖附」にみる河喜多家

2008-10-22 13:38:23 | 歴史
 治部左衛門家の初代・甚吉は河北石見(ガラシャ夫人殉死)の三男である。他の四家の「先祖附」にはない記述が見受けられて興味深い。

先祖河北石見儀代々丹波国侍ニ而御座候 天正四年之比明智日向守光秀公丹波御受領之時分光秀公御家人ニ成居申候處幽齋様御代三齋様十六歳之節光秀公御息女様と御縁組城州青龍寺之御城ニ而御婚禮之節秀林院様江奉附御家江来御知行千石被為拝領候由申傳候 石田治部少輔乱之時分慶長五年七月十七日大坂玉造之御屋敷ニ而秀林院様御自殺之御供仕相果申候 其節石見家来河北六左衛門同助六と申者殉死仕候 三齋様関東御出陳ニ付石見家来河北新左衛門と申者を以右之趣言上仕候

右石見忰三人御座候 嫡子河北五郎左衛門と申候 明智光秀公江居申候内同家中小原甚大夫と申者御誅伐之仕手被仰付相果申候 二男河北藤平父跡式被為拝領石見と名を改申候 豊前妙見龍王之御城代被仰付候 其砌河北父字思召之旨御座候由ニ而河喜多と三齋様被遊御置候 慶長十一年七月廿七日飯河豊前御誅伐之仕手被仰付打放申候処豊前家来石見を偽切害仕候
初代
三男河喜多甚吉と申候 後ニ嘉兵衛と名改申候 十歳之節父石見ニ附候而天正六年丹波より城州青龍寺江来其後休無様御誕生之時分より被成御附御奉公仕岐阜関ヶ原御陳之時茂休無様御供仕相勤候 右嘉兵衛今村嘉内柳田半助此三人共休無様御目通ニ而相應之働をも仕候得共関ヶ原御陳以後御様子御座候而休無様京都江御立退被成候ニ付御供仕来候故右三人其後
三齋様御吟味之節■申候由承傳申候段休無様共嘉兵衛ニ御脇差被為拝領候 右之御脇差其後
三齋様被進候浮股と御附被成候 関善定兼吉之御脇差ニ而御座候 于今取持仕候 休無様京都江被成御座候内三年相勤候 慶長八年豊前江罷下申候處御知行弐百石被為拝領 三齋様江御奉公仕元和四年六月病死仕候
          (以下二代目・略) ■については現況不明 「漏」か?

 細川内膳家の「細川忠雄(五代忠英)家譜」には、河喜多加兵衛として記されている
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河喜多石見の枝葉

2008-10-22 09:44:28 | 歴史
 ガラシャ夫人生害の折に殉死した、小笠原少斎並びに河喜多石見の子孫は、その枝葉を大きく広げている。五家に及ぶご子孫の先祖附をひもとき略系図の作成を試みてみた。尚、河喜多姓としたのは二代藤平以降である。

         +--河北五左衛門
         |  明智家中小笠原甚左衛門誅伐仕手・討死
         |
         |            +--平十郎
         |            |  父・石見死亡時勘気、後五百石、病死跡断絶
         |            |
         |            |           +--某 御暇
ガラシャ夫人殉死|  妙見龍王城預  |           |        
 河北石見---+--藤平(石見)---+--五郎左衛門---+--助兵衛・・・・・・・・・・・・→列蔵家
          |  飯河豊前誅伐仕手・討死         | 
          |           |           +--次左衛門 病死
          |           |           |
          |           |           +--吉兵衛 病死
          |           |           |
          |           |           +--勘左衛門・・・・・・・・・・→助三郎家
          |           |           |
          |           |           +--角左衛門・・・・・・・・・・→一二家
          |           +--某
          |           |
          |           +--源之進・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→和学家
          |               (父)石見相果申候砌出生仕候
          +--甚吉(嘉兵衛)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→治部左衛門家
              細川忠隆(休無)家臣(誕生時より慶長八年迄)その後豊前にて召出
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楯岡家先祖附の間違い

2008-10-21 09:53:41 | 歴史
 楯岡家の先祖附を読んでいるが、初代光直(哲斎)についての記述がおかしい。書き出しに「初代高祖父楯岡甲斐守儀」とあるから、五代目が書いた事が分かる。哲斎の没年が寛永二年(実は寛永六年-1629)、亡くなった時息・孫市郎は九歳(実は廿二歳)など間違いが顕著である。五代目殿は寛延四年(1751-宝暦元年)父親の隠居に伴い家督相続している。120余年も経過していると、こういう間違いも起こるのだろうか。 

 甲斐守光直(哲斉)の父・最上出羽守義守は山形最上氏11代当主、12代最上義光(57万石)の父親である。その娘は伊達政宗の生母である。
光直は最上義俊一門家老を勤め、一万三千石・楯岡城主、いわゆる最上騒動により最上家は改易となり、光直は細川家御預けとなった。約7年の間を小倉の地で過し、62歳で亡くなった。

          ja.wikipedia.org/wiki/最上氏
          www2.harimaya.com/sengoku/html/mogami_k.html   (武家家伝-最上氏)
          ja.wikipedia.org/wiki/最上騒動
   
■元和八年十一月二日
  【最上義俊の一門家老楯岡甲斐守光直、忠利君御預之事ニ付而御国江之御書】
   民部(小笠原民部)者急差下候、最上浪人楯岡甲斐と申仁我等ニ被成御預
   候間、跡より可差下候、甲斐守下着次第、百人扶持相渡可申候、宿ハ何レ
   ニても寺を可申付候、下国之上家ハ可申付候、当分之兵粮塩噌以下見計可
   申付候、謹言。
   直々、甲斐守大阪よりも船中廿日分為賄百人扶持相渡候へと申付候、又甲
   斐守人数上下百弐三十人も有之由ニ候、可有其心得候、以上。
       十一月二日            内 忠利   
                                  (綿考輯録・巻二十九)

■消息:寛永元年十一月十日-米百俵      (細川小倉藩・日帳 一-p96)
   楯岡甲斐守方へ五斗入米百俵遣候との 御印、并永良長兵衛よりの奉書、右清左衛門(坂崎氏)
   持参候 (同十三日、差紙ヲ知行方奉行へ渡ス p98)

■消息:寛永四年五月十日-湯治         (細川小倉藩・日帳 一-p318)
   楯岡鉄斎湯治被成御下候事、但、中無様(長岡孝之)御乗上被成御舟ニ而被下候也

■消息:寛永五年五月朔日-合力米について  (細川小倉藩・日帳 一-p473)
   鉄斎への御合力米は引のけ候て置候哉と熊谷九郎兵衛にて被 仰出候、いつものことくニ百石渡
   申たる由御請仕候処、定被遣儀ニ而ハ無之候、何ものより渡候へと申ニ付渡候哉と、重而被仰出
   候、(以下略)

■消息:寛永五年九月五日-忠利哲斎邸ニ臨ム (細川小倉藩・日帳 ニ-p76)
   楯岡鉄斎ニ今朝被成 御成候、大判一枚・御小袖三つ・御腰物一腰被遣候事

■消息:寛永五年九月七日-重陽の小袖     (細川小倉藩・日帳 ニ-p79)
   楯岡鉄斎へ御小袖弐つ被遣候、御使猿木何右衛門

■消息:寛永六年四月廿二日-病状        (細川小倉藩・日帳 ニ-p233)
   楯岡鉄斎の様子、御年寄衆より、御飛脚両人江戸へ差上られ候
                       
■消息:寛永六年五月廿一日-死去の報     (細川小倉藩・日帳 ニ-p261)
   ■今晩夜ニ入鉄斎病死被成候事 
          
■預人の報告:寛永十九年八月五日付 「松平伊豆守・阿部豊後守宛--細川光尚書付」抜粋
   最上源五郎家来楯岡甲斐守、元和九年亥之正月ニ越中守ニ被成御預ケ候、
   寛永六年巳之五月ニ於豊後國小倉歳六十ニ而病死候、其子孫一郎歳廿二、
   弟蔵之助歳十五、孫一郎姉歳四拾四、家中村井内蔵助と申者ニ女房ニ遣
   シ、于今熊本ニ罷有候事        
                     (大日本近世史料・細川家史料十五 p162)

二代目孫市郎定直は 
  (1)御扶持取方 百人 此子孫代々席上 (於豊前小倉御侍帳)
  (2)百人扶持  (肥後御入国宿割帳)
*肥後入国後御知行千石被下、座配御左之着座二被仰付、慶安の比よりハ松野・木下・津川・楯岡と
  次第いたし四番座ニ相成・・・・・                       (綿考輯録・巻二十九)
*承應二年(1653)赦免
  (3)人持衆、番頭并組外衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
  (4)千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
  (5)有吉頼母允組 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
          寛文十一年十一月没(先祖附)
          室・尾藤家初代金左衛門女(尾藤家系図)
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伊也様御聟・田中半右衛門殿

2008-10-21 07:25:42 | 歴史
 半右衛門は「細田家系図」から、長束三郎助信と名乗っていた事が判明した。父親長束正家の嫡男である。代々水口城に在城し水口氏を名乗ってきたが、正家代天正元年水口城没落と共に西近江長束に住まいしたため、長束氏を名乗った。天正十一年九月秀吉により水口へ帰城するが、慶長五年石田治部少輔に加担して関ヶ原に於いて戦うも敗走、水口城にて諸将と共に戦死したと「長束家先祖附」は記す。
 さて伊也様御聟・田中半右衛門殿についてである。

       (略)田中半左衛門儀長束大蔵大輔嫡子ニ而
     御座候 慶長五年水口之城没落之砌ハ京都吉田左兵衛督殿
     方江罷居申候
       右左兵衛督殿ハ
       幽齋様御聟ニ而半左衛門ハ左兵衛督殿聟ニ而
       御座候 半左衛門妻後ハ徳雲院と申候 嫡子田中
       又助方江罷存候 常々御殿江茂罷出
       御下国之節毎度御土産を茂被為拝領為
       御合力拾人扶持被下置候
     然處従
     三齋様半左衛門儀御家ニ被召出度由
     公儀江御願相■候ニ付御知行五百石被為拝領候      ■(現況不読)
     江戸江相詰御奉公相勤居申候處元和九年四月
     病死仕候

 半左衛門と徳雲院の娘が、伊也(吉田兼治室)の幼女として荒木村重の孫・克之に嫁いだ。女子・フサが従兄弟・荒木十次郎(細田左馬介・栖隠)に嫁ぎ、弟・三郎が養子となった。又、谷内蔵之允妹が細田栖隠室(継室?)であった関係で、三郎は谷家養子となり、権右衛門を称して二代目跡目を相続した。
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「谷権右衛門」谷家先祖附から

2008-10-20 13:02:59 | 歴史
二代:谷権右衛門
祖父谷権右衛門儀実者荒木攝津守曾孫ニ而御座候 攝津守儀代々於京都将軍家江奉仕阿州播州と領地仕居候 其後信長公江従不申様子ニ而御攻被成子孫零落仕候 攝津守孫荒木権右衛門妙解院様御代被召出御御奉公仕候処先主板倉伊賀守様より御■御座候而其後御暇被下候 此者妻浄勝院様御養女ニ而御座候 右之通之様子ニ而荒木権右衛門世忰権右衛門儀刻浪人ニ而御国江居申幼少より姉婿細田栖隠方江育置細田氏と名乗を子分ニ仕居候 妙應院様御代曽我丹波守様御願ニ而権右衛門儀明應二年御児小姓被召出相勤居申候内右内蔵之允無御座候付而寛文之春内蔵之允江養子聟ニ被仰付候 同年閏五月十一日内蔵之允跡同無相違(二代)権右衛門ニ被為拝領長岡監物殿組ニ被召加候事 以下略

 ■の文字の読みは間違いないと思う。(つぶす)
 ■の文字がどうしても読めない、撥(はねる、はじく)の様にも思えるが、ハッキリしない。前のブログの四文字も読めないでいるが、要するに荒木権右衛門の細川家召出について、板倉伊賀守(勝重)が異議を唱えた為、離藩せざるを得ない状況があったように伺える。
       ja.wikipedia.org/wiki/板倉勝重
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「細田氏系図」から分かった事、分からない事

2008-10-20 09:57:31 | 歴史
先のブログに書いた、「細田氏系図」にある荒木克之に関する書き込みについてである。重複するがその部分を再掲する。。
「権右衛門号室ハ吉田三位左兵衛佐兼治卿ノ娘實長束三郎助信卿娘也 助信卿後改田中半左衛門ト号、(助・脱カ)信卿室ハ吉田兼治ノ女、兼治ノ室ハ幽齋公第六ノ姫御名伊也 始メ一色左兵衛義有ニ嫁セラレ後為吉田兼治室、克之幼少板倉重勝侯ニ仕、又有馬玄蕃頭ニ仕立退 其後忠利公ニ奉仕 重勝侯三嫉三推之以故御家ヲ退キ隠遁」

■分かった事
 田中半左衛門(長束正家子)が長束三郎助信と名乗っていたこと
■分からない事
 どう眺めても「三嫉三推」の文字である。これが果たして正解なのか、大変疑わしいまま掲載した。「嫉」という字は「にくむ、ねたむ」という語彙がある。坂倉重勝→有馬玄蕃頭→細川忠利」と主を替えたことに対し、重勝の思いをさっして細川家を去ったと解したのだが如何。ただし「之嫉之推」かもしれないし、違う熟語(?)かもしれない。
お分かりの方があれば、ご示教いただきたい。
コメント (1)
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「浄勝院様御養女」谷家先祖附から

2008-10-20 08:07:01 | 歴史
 又々「荒木氏系細田氏」の話である。
話を理解していただく為に細田氏系図を再掲しておく。

 谷家の先祖附を読んでいたら、谷権右衛門の項に「此者妻浄勝院御養女」と書かれている事に気付いた。浄勝院とは吉田兼治の妻・伊也(幽齋女)のことである。下記系図を作成するに当たり、いささか見切り発車的に憶測で書いた事が裏付けられて、ほっとしている。谷権右衛門は荒木克之の子、伯父栖隠(細田左馬介)に養育され養子となった。藩公の強い要請により義弟(室の弟)谷内蔵允の継嗣子となったものである。

 実は細田氏系図なるものは、A4判ほどの紙に系図が書かれ、細い小さな文字でぎっしり書き込みが有り、判然としない部分があった。荒木克之室については次のように書き込まれている。「克之:権右衛門号室ハ吉田三位左兵衛佐兼治卿ノ娘實長束三郎助信卿娘也 助信卿後改田中平左衛門ト号、(助・脱カ)信卿室ハ吉田兼治ノ女、兼治ノ室ハ幽齋公第六ノ姫御名伊也 始メ一色左兵衛義有ニ嫁セラレ後為吉田兼治室、克之幼少板倉重勝侯ニ仕、又有馬玄蕃頭ニ仕立退 其後忠利公ニ奉仕 重勝侯三嫉三推之以故御家ヲ退キ隠遁」
この文章は非常に理解しづらい。何度も読んでいると伊也の娘(田中半左衛門室)の子を荒木克之が妻とした事が伺える。つまりは浄勝院(伊也)養女である。
その旨を下記系図で表記したいのだが、線が結べなくて困り果てた結果、書き込みでお茶をにごすことにして一件落着とする。
 


                     十次郎・左馬介(細田姓)
  荒木村重---+--十次郎------村完(梄隠)---+==三郎権右衛門(谷内蔵之允為養子)
          |            ∥       |            初代       
         谷出羽守衛友---+--●姉      +===============梶之介・・・→(細田家)        
          |         |  初代            二代
          |         +--内蔵之允   +======権右衛門・・・・・・・・・→(谷家) 
          |             ∥--------|        ∥
  +--------------長岡好重-----●幾久     +----------●
 |        | 三渕伊賀守・幽齋末弟
 |        | 
 |        +--村勝----------克之----+--女子(栖隠妻)
 |                      ∥     |
 |                      ∥    +--村長-----梶之介(栖隠歿後養子・名跡相続)
 |吉田兼見---兼治           ∥    |
 |         ∥----徳雲院    ∥    +--弥平
 +---幽齋---伊也      ∥    ∥    |
                   ∥-----●   +--三郎(栖隠養育・為養子)
               初代  ∥  吉田兼治・伊也の養女
      長束正家----田中半左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(田中家)



 
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御国巡見使

2008-10-19 10:36:11 | 歴史
 磯田道史氏の「殿様の通信簿」は、あちこちの殿様のスキャンダラスな話を俎上にしている。
【名君の誉れ高い水戸の黄門様は、じつは悪所通いをしていたと記され、あの赤穂事件の浅野内匠頭は、女色に耽るひきこもりで、事件前から家を滅ぼすと予言されていた。各種の史料も併用しながら、従来の評価を一変させる大名たちの生々しすぎる姿を史学界の俊秀が活写する歴史エッセイの傑作。 徳川光圀-ひそかに悪所に通い、酒宴遊興甚だし浅野内匠頭と大石内蔵助-長矩、女色を好むこと切なり池田綱政-曹源公の子、七十人おわせし前田利家-信長、利家をお犬と申候前田利常其之壱-家康曰く、其方、何としても殺さん前田利常其之弐-百万石に毒を飼う 】

 これは「土芥寇讎記」という史料を元にしているというから、真実に近いものなのだろう。実は昨日我がご先祖が「御国巡見使」のお相手を勤めたことを書いた。
「新・熊本の歴史5--近世・下」に元熊本大学教授・松本寿三郎先生の、「肥後を訪れた人々」という一文に「御国巡見使」の事が一部紹介されている。そして巡見使とは別に公儀隠密が入り、その調査報告が先の「土芥寇讎記」に反映されているとされる。
その内容は大変辛らつで一部を引用すると次のようにある。
 ■家士ハ奢リテ過美ヲ好ム故ニ、内証衰ウ。諸士武芸ヲ好ミ、風俗ヨシ、去レドモ文学ハ励ム者ナシ。故ニ文盲不才ニ見ユル人多シ
但し、藩公綱利公は磯田道史氏に取り上げられるような事柄も見えず、「生得悠然トシテ智恵有」と表されている。
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弔 森田誠吾様

2008-10-18 20:00:24 | 徒然
 私のプロフィールに書いている「私の好きな作家」の一人、直木賞作家・森田誠吾さんが亡くなった。受賞作と成った「魚河岸物語」は大変印象深く残っている。NHKでドラマ化され、小林薫と歌手の今井美樹が主人公を好演した。1987年の作品だというから吃驚だが、今一度見てみたい気がする。「銀座八丁亭」も大好きな作品だ。何度読んだ事か。もう森田さんの新たな作品に出会う事が出来ない事が残念で成らない。
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掃苔というか調査というか

2008-10-18 17:29:15 | 徒然
 きょうの熊本は夏に帰ったのかと思わせる暑い一日、絶好の外出日和だ。ちょっと気になる案件があって本妙寺にいたる、熊本--河内線の坂道を駆け上がり、某寺の墓苑でお墓の調査、鳥肌が立つような思いがけない事に遭遇して、測量やらスケッチを1時間ほどして早々に帰宅。実はあと一件見ておきたい物があったのだが、これはまたの機会とさせていただいた。それぞれ関係者がおありだから詳細は省略するが、「歴史馬鹿人」としては誠に不思議な経験をした。積み重ねられていたお墓の幾つかの石を持ち上げていたら、腰にがくんときて思わずへたり込んでしまったが、・・・ご愛嬌である。66爺歳を考えて何事もやらにゃーいかんという事だ。
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「委細覚書」の所在

2008-10-18 11:42:23 | 歴史

 我が家の二代目太左衛門は、天和元年(1681)の幕府巡見使の「御国巡見」に際し下役で働いている。
先祖附にも次のように記している。


一、天和元年酉八月朔日御巡見之御衆奥田八郎左衛門様、戸川杢之助様、柴田七左衛門様御国内
   御巡見被成候、就而御用被仰付、川尻より薩摩境まで相勤、同十六日罷帰申候
一、同年八月廿三日於御花畑大木舎人殿被仰渡候者、右巡見之御供衆日向より御帰之節所々御
   宿等見繕諸事存寄之通ニ而、御役人等被差添南郷より南関迄罷越誤用相勤、同廿九日罷帰
   申候上ニ而御褒美御銀二枚被為拝領候
一、同年九月七日より右巡見之御衆様日向より又御国内江御越被成候付而御用被仰付、南郷高森
   より南関まで相勤申候、於南関奥田八郎左衛門様より被為召候而、御側方其外之御方江も
   右之趣相伺候処、罷越様ニと被仰聞候故、早速八郎左衛門様御宿へ参上仕候処、御居間之
   次へ被召寄、彼方様御家来米山太郎兵衛御目附後楢原又市郎を以段々御尋之儀共御座候を、
   御首尾申聞仕候処、委細被聞召届候由ニ而、段々御懇之御意共ニ御吸物御酒迄被下候、罷
   帰右御尋之趣一々申披候趣をも御側方ニ申上、右之御用始終申勤申候趣、委細覚書ニも仕
   置申候

 先にご紹介した人間文化研究機構・国文学研究資料館が発刊した、史料叢書10「藩の文書管理」に於いてはその著の過半を費やして、細川家文書が如何に分類保管管理されていたかを紹介している。
 私は太左衛門が藩庁に提出したという、「委細覚書」の所在を調べていたのだが、皆目見当がつかずにいた。処がこの「藩の文書管理」において、ヒントになる記述を見つけていささかの光明を見た気がしている。

 「年欠御蔵入目録 酉五印」の「五拾七番」~「六拾弐番」に125点ほどの文書が収められていることが分かる。このどこかに在るのだろうが、気が遠くなる数だ。文書の表題を睨みつけながら、該当文書を探している。

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充行状の読み方

2008-10-17 18:04:13 | 歴史

充行状の読み方についてのご質問があったのでご紹介する。

  肥後國於■■郡之内■■村
 百石如先規充行之訖
 全可領地之状如件


       百石先規の如く之を充行(あてがい)訖(おわ)んぬ
       全く領地すべきの状如件(くだんのごとし)

 細川藩の充行状(宛行状)では見受けられませんが、「訖」を「畢」と書くところも有るようです。


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