二代:谷権右衛門
祖父谷権右衛門儀実者荒木攝津守曾孫ニ而御座候 攝津守儀代々於京都将軍家江奉仕阿州播州と領地仕居候 其後信長公江従不申様子ニ而御攻潰被成子孫零落仕候 攝津守孫荒木権右衛門妙解院様御代被召出御御奉公仕候処先主板倉伊賀守様より御■御座候而其後御暇被下候 此者妻浄勝院様御養女ニ而御座候 右之通之様子ニ而荒木権右衛門世忰権右衛門儀刻浪人ニ而御国江居申幼少より姉婿細田栖隠方江育置細田氏と名乗を子分ニ仕居候 妙應院様御代曽我丹波守様御願ニ而権右衛門儀明應二年御児小姓被召出相勤居申候内右内蔵之允無御座候付而寛文之春内蔵之允江養子聟ニ被仰付候 同年閏五月十一日内蔵之允跡同無相違(二代)権右衛門ニ被為拝領長岡監物殿組ニ被召加候事 以下略
■潰の文字の読みは間違いないと思う。(つぶす)
■の文字がどうしても読めない、撥(はねる、はじく)の様にも思えるが、ハッキリしない。前のブログの四文字も読めないでいるが、要するに荒木権右衛門の細川家召出について、板倉伊賀守(勝重)が異議を唱えた為、離藩せざるを得ない状況があったように伺える。
ja.wikipedia.org/wiki/板倉勝重
祖父谷権右衛門儀実者荒木攝津守曾孫ニ而御座候 攝津守儀代々於京都将軍家江奉仕阿州播州と領地仕居候 其後信長公江従不申様子ニ而御攻潰被成子孫零落仕候 攝津守孫荒木権右衛門妙解院様御代被召出御御奉公仕候処先主板倉伊賀守様より御■御座候而其後御暇被下候 此者妻浄勝院様御養女ニ而御座候 右之通之様子ニ而荒木権右衛門世忰権右衛門儀刻浪人ニ而御国江居申幼少より姉婿細田栖隠方江育置細田氏と名乗を子分ニ仕居候 妙應院様御代曽我丹波守様御願ニ而権右衛門儀明應二年御児小姓被召出相勤居申候内右内蔵之允無御座候付而寛文之春内蔵之允江養子聟ニ被仰付候 同年閏五月十一日内蔵之允跡同無相違(二代)権右衛門ニ被為拝領長岡監物殿組ニ被召加候事 以下略
■潰の文字の読みは間違いないと思う。(つぶす)
■の文字がどうしても読めない、撥(はねる、はじく)の様にも思えるが、ハッキリしない。前のブログの四文字も読めないでいるが、要するに荒木権右衛門の細川家召出について、板倉伊賀守(勝重)が異議を唱えた為、離藩せざるを得ない状況があったように伺える。
ja.wikipedia.org/wiki/板倉勝重