寛文12年12月13日、新坪井弐丁目の質屋・油屋藤兵衛の所に、細川左京殿足軽田尻庄兵衛の父親・孫左衛門が、自分の帯を質に入れた。年末のこととて物入りであったのだろう。処がこれが期日の内に請け出されず質流れと成った。職人町の惣右衛門という人が、これを買い取り、着物の襟にしようと帯をほどいたのだろうか、中を見ると「切支丹之事を書申たる反故(ほご)」が表れお届けに及ぶ。当然のことながら孫左衛門は捕らえられ、御吟味の上その「反故」とともに長崎へ送られた。
これは「熊本藩の文書管理」の「坤御櫓入目録根帳」(p193)に登場する。
「其帯之がわと中ごに成候縞之きれと此文箱ニ入置由之文箱壱ツ」とある。
当然孫左衛門は罪を得たのだろうが、下手をすると死罪で有ったかもしれない。
職人町の惣右衛門さんの着物のエリはどうなったのだろう?
細川左京殿とは忠利の三男・尚房のことであろう。新知二万石。松之介、左京、修理(亮)、尚良などと称した。室は松井寄之女・万である。息・尚方に継嗣がなく絶家となった。
それにしても、こんな大事な物を忘れてしまうとは、うっかりは命取りである。
これは「熊本藩の文書管理」の「坤御櫓入目録根帳」(p193)に登場する。
「其帯之がわと中ごに成候縞之きれと此文箱ニ入置由之文箱壱ツ」とある。
当然孫左衛門は罪を得たのだろうが、下手をすると死罪で有ったかもしれない。
職人町の惣右衛門さんの着物のエリはどうなったのだろう?
細川左京殿とは忠利の三男・尚房のことであろう。新知二万石。松之介、左京、修理(亮)、尚良などと称した。室は松井寄之女・万である。息・尚方に継嗣がなく絶家となった。
それにしても、こんな大事な物を忘れてしまうとは、うっかりは命取りである。