津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

楯岡家先祖附の間違い

2008-10-21 09:53:41 | 歴史
 楯岡家の先祖附を読んでいるが、初代光直(哲斎)についての記述がおかしい。書き出しに「初代高祖父楯岡甲斐守儀」とあるから、五代目が書いた事が分かる。哲斎の没年が寛永二年(実は寛永六年-1629)、亡くなった時息・孫市郎は九歳(実は廿二歳)など間違いが顕著である。五代目殿は寛延四年(1751-宝暦元年)父親の隠居に伴い家督相続している。120余年も経過していると、こういう間違いも起こるのだろうか。 

 甲斐守光直(哲斉)の父・最上出羽守義守は山形最上氏11代当主、12代最上義光(57万石)の父親である。その娘は伊達政宗の生母である。
光直は最上義俊一門家老を勤め、一万三千石・楯岡城主、いわゆる最上騒動により最上家は改易となり、光直は細川家御預けとなった。約7年の間を小倉の地で過し、62歳で亡くなった。

          ja.wikipedia.org/wiki/最上氏
          www2.harimaya.com/sengoku/html/mogami_k.html   (武家家伝-最上氏)
          ja.wikipedia.org/wiki/最上騒動
   
■元和八年十一月二日
  【最上義俊の一門家老楯岡甲斐守光直、忠利君御預之事ニ付而御国江之御書】
   民部(小笠原民部)者急差下候、最上浪人楯岡甲斐と申仁我等ニ被成御預
   候間、跡より可差下候、甲斐守下着次第、百人扶持相渡可申候、宿ハ何レ
   ニても寺を可申付候、下国之上家ハ可申付候、当分之兵粮塩噌以下見計可
   申付候、謹言。
   直々、甲斐守大阪よりも船中廿日分為賄百人扶持相渡候へと申付候、又甲
   斐守人数上下百弐三十人も有之由ニ候、可有其心得候、以上。
       十一月二日            内 忠利   
                                  (綿考輯録・巻二十九)

■消息:寛永元年十一月十日-米百俵      (細川小倉藩・日帳 一-p96)
   楯岡甲斐守方へ五斗入米百俵遣候との 御印、并永良長兵衛よりの奉書、右清左衛門(坂崎氏)
   持参候 (同十三日、差紙ヲ知行方奉行へ渡ス p98)

■消息:寛永四年五月十日-湯治         (細川小倉藩・日帳 一-p318)
   楯岡鉄斎湯治被成御下候事、但、中無様(長岡孝之)御乗上被成御舟ニ而被下候也

■消息:寛永五年五月朔日-合力米について  (細川小倉藩・日帳 一-p473)
   鉄斎への御合力米は引のけ候て置候哉と熊谷九郎兵衛にて被 仰出候、いつものことくニ百石渡
   申たる由御請仕候処、定被遣儀ニ而ハ無之候、何ものより渡候へと申ニ付渡候哉と、重而被仰出
   候、(以下略)

■消息:寛永五年九月五日-忠利哲斎邸ニ臨ム (細川小倉藩・日帳 ニ-p76)
   楯岡鉄斎ニ今朝被成 御成候、大判一枚・御小袖三つ・御腰物一腰被遣候事

■消息:寛永五年九月七日-重陽の小袖     (細川小倉藩・日帳 ニ-p79)
   楯岡鉄斎へ御小袖弐つ被遣候、御使猿木何右衛門

■消息:寛永六年四月廿二日-病状        (細川小倉藩・日帳 ニ-p233)
   楯岡鉄斎の様子、御年寄衆より、御飛脚両人江戸へ差上られ候
                       
■消息:寛永六年五月廿一日-死去の報     (細川小倉藩・日帳 ニ-p261)
   ■今晩夜ニ入鉄斎病死被成候事 
          
■預人の報告:寛永十九年八月五日付 「松平伊豆守・阿部豊後守宛--細川光尚書付」抜粋
   最上源五郎家来楯岡甲斐守、元和九年亥之正月ニ越中守ニ被成御預ケ候、
   寛永六年巳之五月ニ於豊後國小倉歳六十ニ而病死候、其子孫一郎歳廿二、
   弟蔵之助歳十五、孫一郎姉歳四拾四、家中村井内蔵助と申者ニ女房ニ遣
   シ、于今熊本ニ罷有候事        
                     (大日本近世史料・細川家史料十五 p162)

二代目孫市郎定直は 
  (1)御扶持取方 百人 此子孫代々席上 (於豊前小倉御侍帳)
  (2)百人扶持  (肥後御入国宿割帳)
*肥後入国後御知行千石被下、座配御左之着座二被仰付、慶安の比よりハ松野・木下・津川・楯岡と
  次第いたし四番座ニ相成・・・・・                       (綿考輯録・巻二十九)
*承應二年(1653)赦免
  (3)人持衆、番頭并組外衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
  (4)千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
  (5)有吉頼母允組 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
          寛文十一年十一月没(先祖附)
          室・尾藤家初代金左衛門女(尾藤家系図)
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伊也様御聟・田中半右衛門殿

2008-10-21 07:25:42 | 歴史
 半右衛門は「細田家系図」から、長束三郎助信と名乗っていた事が判明した。父親長束正家の嫡男である。代々水口城に在城し水口氏を名乗ってきたが、正家代天正元年水口城没落と共に西近江長束に住まいしたため、長束氏を名乗った。天正十一年九月秀吉により水口へ帰城するが、慶長五年石田治部少輔に加担して関ヶ原に於いて戦うも敗走、水口城にて諸将と共に戦死したと「長束家先祖附」は記す。
 さて伊也様御聟・田中半右衛門殿についてである。

       (略)田中半左衛門儀長束大蔵大輔嫡子ニ而
     御座候 慶長五年水口之城没落之砌ハ京都吉田左兵衛督殿
     方江罷居申候
       右左兵衛督殿ハ
       幽齋様御聟ニ而半左衛門ハ左兵衛督殿聟ニ而
       御座候 半左衛門妻後ハ徳雲院と申候 嫡子田中
       又助方江罷存候 常々御殿江茂罷出
       御下国之節毎度御土産を茂被為拝領為
       御合力拾人扶持被下置候
     然處従
     三齋様半左衛門儀御家ニ被召出度由
     公儀江御願相■候ニ付御知行五百石被為拝領候      ■(現況不読)
     江戸江相詰御奉公相勤居申候處元和九年四月
     病死仕候

 半左衛門と徳雲院の娘が、伊也(吉田兼治室)の幼女として荒木村重の孫・克之に嫁いだ。女子・フサが従兄弟・荒木十次郎(細田左馬介・栖隠)に嫁ぎ、弟・三郎が養子となった。又、谷内蔵之允妹が細田栖隠室(継室?)であった関係で、三郎は谷家養子となり、権右衛門を称して二代目跡目を相続した。
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