津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

どうやら60%

2008-10-08 18:09:54 | 徒然
 「旧陪臣代数及原禄根帳」のタイピングの進捗率が、どうやら60%に到達した。「細川内膳家」の126人をどうやら済ませて一息ついた。「松井家」の64人とか、「堀家」の66人、最期の難関に「薮家」の117人がある。あと四・五日でなんとかかたずけたいと思っている。一部UPもしてみた。お陰で背中がばりばり音がするように痛い。悪友が又一言のメール「馬鹿・・」
ご尤も
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「丹後細川能番組」と荒木善兵衛

2008-10-08 16:16:09 | 歴史
 「荒木系図」「荒木系・細田系図」を眺めていたら、糸がもつれにもつれ収拾がつかなくなってしまった。「丹後細川能番組」に善兵衛の名前があった事を思い出し、宮園昌之氏の著作・久八叢書「丹後細川能番組」をひもといてみた。
21番の大鼓、1番の太鼓を打っている。初出は「天正13年(1585)乙酉三月朔日・於有吉四郎右衛門庭ニ」於いてである。
善兵衛は父・荒木村重が天正7年(1579)有岡城を退去するに当たり、細川忠興にその身を託したとされる。綿孝輯録は善兵衛が「幼稚ニ有之候」と記す。「幼稚」とは果たして何歳か?。お歴々の前で大鼓を打つのは僅か六年後のことである。十歳を二つ・三つ過ぎた頃ではないのか。忠興の庇護の元、芸能の道にも励んでいた事が伺える。

 上記著書では善兵衛の紹介にあたって、その末尾に「(明智)光秀の女婿だった新五郎(村次=村重息)が善兵衛と同人か」とされるが、これは明らかな間違いであろう。

 ちなみに先のブログに書いた、幼き善兵衛を召し置いた「神森城」とは、上記著書の解説によると「丹後加佐郡江守の城」であろうと思われる。「こうもり城」のようだが、これとて遠く熊本の地からでは、なんともハッキリしない。
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