津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

己の首をしめる

2009-02-21 16:49:21 | 徒然
 自分で作った「侍帳」の、いろいろな書き込みの出典がわからず苦労している。現在「福岡県史--近世資料編・細川小倉藩」三巻について、該当する記事を個々人のデータとして、侍帳に記載する作業をしている。その作業の段階で「何野何兵衛--第○巻・p○○」といった風にノートに書き出しを始めたのだが、段々「人名索引」の体裁をなしてきた。ならば細川家に係る色々な資料を含めての「細川家家臣--資料出典・人名索引」を作ってみようかと、数日前から「あゝし様、こうしたらどうか」と考えて夜も寝られない状態である。己の首をしめるだけの馬鹿げた話で、「あれば便利だろう」と思うのだが、如何だろうか。自分の馬鹿ぐあいにあきれ返っている。
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細川家家臣・平野家を考える

2009-02-20 14:13:02 | 歴史

 細川家家臣・平野氏について問い合わせをいただき、いろいろ調べている内に過去のブログ
      ■ 2008年12月11日 肥後入国「熊本御城の要害其外委細申上候と也」
      ■ 2008年08月01日 細川家家臣・横井氏 & 平野氏
に書いた内容に自信がなくなってしまった。次の二点を特に精査する。

  1、略系図
  2、清原(舟橋)家から養子に入ったとされる長治は果たして誰の子なのか。



          五郎左衛門
         +---長時---源太左衛門---+--仙右衛門
         |            |
         |            +--弥五右衛門
         |            |
         |            +--茂兵衛・・・・・・・・・→五郎家
         |
         | 甚左衛門 九郎右衛門   九郎右衛門
         +---長景-----長之--------+--長是・・・・・・・・・・→九郎太郎家
         |           | 庄大夫
         |           +--長直・・・・・・・・・・→七角家
万久入道  大炊頭(介)
  賢長===長治---+---長泰---長勝・・・・・・・・・・・・・交代寄合衆・明治に入り田原本藩主
        |
        +---長重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・旗本
        |
        | 弥次右衛門  茂左衛門   知行召上
        +---長知---+--長秀---三郎兵衛・・・・・・・・・・・・・→弥平家
              |
              +--弥平太 島原の乱討死
              | 元右衛門
              +--元弥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→甚兵衛家  

                                     
清原宣賢---+--業賢---+--枝賢
     |    |
     |    +--長治
     |
     +----女
         |-------細川藤孝
     三渕晴員

【平野源太左衛門】
■平遠江(平野長泰)より、肥後に居申候おい(平野源太左衛門)、我等ニ抱候様にと被申候間、肥後殿構無之候ハヽ、抱可申由約束仕候、此儀にて言上仕候キ、肥後殿構ふかく御座候而、同心不参候故、おいの儀は成間敷と被存、其子両人御座候を、我等ニ抱させ申度由被申越候へ共、宗立(三齋)様へ御かためを、申上候間、成不申由申候へハ、又 宗立様へ被申上之由承候、肥後殿事之外構ふかく被申候間、其子抱候ハヽ、肥州満足ニハ御座有間敷かと存候間、何とそ御分別を以、遠州へ被仰遣候様ニと、可被申上候事 
     元和七年八月廿八日書状案 (大日本近世史料・細川家史料 8-51)

■加藤清正に仕へたりし平野源太左衛門長九と云者を、肥後案内として豊前ニ被召寄、御知行千石被下御鉄炮三拾挺御預ヶ被成、嫡子平野弥五右衛門ニ三百石被下、親之添頭被仰付候、熊本御城の要害其外委細源太左衛門申上候と也
                  (綿考輯録巻三十三 忠利公・上p286)

【九郎右衛門・長之】父と共に大阪に籠城し、後洛外に居住、元和八年豊前召寄せられ、知行五百石組外に差し置き。忠利代元和八年八月、三百石加増、小姓頭。其の後大目付。寛永元年八月、百五十石加増。島原乱の時光尚に近侍、武功吟味役。


大日本近世史料・細川家史料--人名索引から
○ 平野長泰 初め長勝。権平。豊臣秀吉に仕ヘ、文禄四年大和田原本にて五千石。慶長三年従五位下遠江守。慶長五年徳川家康に従ふ。寛永五年五月七日歿。年七〇。
   ja.wikipedia.org/wiki/平野長泰
○ 平野長勝 権平 寛永五年相続(大和田原本五千石)。寛文八年従二月九日歿。年六六。
○ 平野長重 九左衛門。長泰弟 幕府旗本、五百石。はじめ織田信忠、ついで豊臣秀吉に仕う。天正十一年二百石。関原戦には福島正則に属して戦功あり。同年三百石加増。大坂の陣に出陣。のち致仕し、慶安三年七月八日歿。年九一。
● 平野源太左衛門 細川家臣。加藤清正家臣平野五郎左衛門長時の男。源太左衛門は加藤家を構はれ、牢人中を忠利に召出される。知行千石。鉄炮三拾挺頭を勤む。
● 平野仙右衛門 細川家臣。高祖父平野大炊助は尾張に生れ、加藤清正に仕う。祖父源太左衛門のとき加藤家を牢人、京都に在住。豊前にて忠利に召出され、鉄炮頭、知行千石。仙右衛門は源太左衛門嫡子。部屋住の内知行二百石。萬治元年跡目相續して七百石。馬廻組。延寶三年隠居

ウィキペディア・武家家伝から
※ 平野大炊介長治 ウィキペディアでは舟橋宣賢の孫とし、武家家伝では「長治は舟橋枝賢の実子で、堀田正貞の女を妻とした。津島に住し、信長・秀吉に仕え、天正十年(1582)には播磨国姫路城の留守居役を命じられている。」とするなど、食い違いが見える。
追記:ぴえーるさんのご教示により、業賢の子とするのが妥当であろう。これについては2/23ブログを参照されたし。

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読書五戒

2009-02-19 11:10:37 | 徒然
 二月十六日のブログ「もうけもん」で書いた、斎藤文男氏のエッセイ「冷めた紅茶」を読んでいる。その中に「読書五戒」なる文章が有るが、成る程と合点してしまう。

   1、ベストセラーに手を出すな
   2、一年に二冊も、三冊も本を出すやつは信用しない
   3、暮らしに役立つ情報や知識は、本では読まない
   4、自分と同じ考えの人の本は買わない
   5、「である」が十行に三つある本は手にしない

 それぞれに解説があるのだが、それは省略するとして、賢明な皆様も「御尤も」とお思いの事だろう。又ブログを綴る機会の多い私としては、「である」を多用しているのではないかと、凄く気になっている。

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ゆるキャラの愛称募集中

2009-02-18 09:42:29 | 熊本
 加藤清正のゆるキャラが出来ました。まだ名前が有りません。現在愛称募集中です。
あなたも応募してみては如何ですか・・・
熊本では「清正公」は親しみを持って、「せいしょこさん=清正公様」二重敬称をもって呼ばれていますが、どうしてもこの辺りは避けて通れないでしょうねー。

【清正公没後400年(2011)記念事業実行委員会では、ゆるキャラの名前を募集している。締め切りは1月20日。FAX(096-322-5813)か、はがき(〒860-0047 熊本市春日3-2-40 加藤清正公記念事業係)で受け付ける。問い合わせは、実行委事業係(096-322-5552)へ】
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「時慶記・第三巻」を読む -- 4

2009-02-18 08:05:14 | 歴史
 ■慶長九年(1604)
 6月1日 葛(葛岡)木内ノ義ニ又棒庵へ申遣候
 6月17日 香薷散調合(中略)棒庵ヘモ遣、肥後守近衛殿へ被参、(中略)棒庵ノ供衆ニ食申付候
 6月18日 棒庵預使者、昨日礼也、宿被寄由候間、則行テ合、(葛岡)木内身上義、一礼申候
 6月22日 将軍参内ニ堂上参勤 加藤肥後守逢
 6月24日 棒庵ニ振舞、今日ヨリ住吉へ被越ニ付而暇乞也
 7月13日 伏見へ棒庵へ蓮飯・サハ・大錫一遣候
 7月14日 ・棒庵湯治ヨリ被上、(中略)、又肥後ヨリ六月廿六日ノ文共相届候
       ・棒庵ヨリ内儀へ干飯十袋被遣候、肥後へ文共請取旨一筆遣候
       ・一夕棒庵宿へ音信
 7月15日 棒庵へ以使者申候、今日伏見へ被帰由也
 8月7日  棒庵へ内儀ヨリ大鮎五十遣
 8月13日 長左衛門尉(真木家永)ハ伏見へ棒庵囚ヲ所望ニ遣候処、可成敗由候
 8月23日 棒庵昨日出京之由預状返礼
 8月24日 肥後ヨリ有便宜、七月廿六日ノ日付也
 8月27日 棒庵ヨリ返事在有(以下略)
 閏8月3日 加藤常由へ遣人、肥後守(加藤清正)下向ノ定日ヲ聞、
 閏8月4日 肥後国へ返事認、伏見へ持せ遣、(中略)、棒庵へ諸白樽一遣候
 閏8月7日 加藤清正、帰国  
        肥後守明日下国由候(中略)、棒庵へ越、下向延引由候 
 閏8月18日 棒庵使、又自身来儀、暇乞肥後へ下向、出舟ト、ヤゝ同心■下向之由候
 11月29日 棒庵使中村五郎介と号、端二テ朝食アリ、誂物共認置
 
                         了

  其の後の加藤清正(ウィキペディアより引用)
慶長10年(1605年)、従五位上、侍従・肥後守に叙任される。慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張・名古屋城の普請に協力した。慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中の船内で発病し、6月24日に熊本で死去した。享年50(満49歳没)。

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花粉症です~

2009-02-17 13:51:21 | 徒然
 最近ゴミ捨ては私の仕事になった。200メートルほどの距離なのだが、帰った途端鼻水とクシャミ、目の痒さに見舞われた。間違いない「花粉症」だ。私のクシャミは強烈で、何度もやっていると、胸やら背中やら痛くなってくる。「ご苦労なこと」とは妻の言である。そして「撒き散らさないでよ・・」と怒られることになる。そのため今日は、家の中でもマスクをかけている。目の方は、日頃パソコンによる影響でドライアイ気味なのだが、それに「痒さ」が加わって、なんともどうしようもない。不愉快極まりない。

 どこに杉木立があるのだろうか、外に目をやると空気が澄んでいるのだろう、立田山が凄く近くに美しく見える。そこに杉木立に囲まれた細川家墓地・泰勝寺がある。

 追記:妻が使っていた空気清浄機が我が部屋に引っ越してきました。
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全国の皆様、有難う御座います

2009-02-17 13:23:41 | 熊本
 今年に入り再開された熊本城の「新・一口城主制度」が好調のようだ。

 www.manyou-kumamoto.jp/castle
 city.kumamoto.kumamoto.jp/Content/web/asp/kiji_detail.asp?Topics=1&...

わずか40数日で1億円を突破したという。それも県外からの皆様の申し込みが多いようだ。有りがたいことでは有る。築城400年を迎えた昨年、本丸御殿の復元完成と共にいろんなイベントが催され、熊本城の入場者数は日本一を記録した。其の後も修復、復元を行う為の資金調達の手段だが、好意をもって理解を得、ご寄付が順調に進んでいるようだ。日本三大名城といわれる熊本城、全国の皆様のありがたいご支援でますますすばらしさを増していく。感謝、感謝。
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「時慶記・第三巻」を読む -- 3

2009-02-17 11:20:02 | 歴史
■慶長九年(1604)

 2月24日 南禅寺三長老(玄圃霊三)へ中風煩由候間、見廻二遣候

     荒川治部少輔澄宣---+--晴宣
                   |   | 
     沼田光兼---+-----------●
             |     |
             |     | 松井広之---康之
             |     |   |
             |     +---●
             |     |
             |     +--玄圃霊三(1535~1608)
      city.kyotango.kyoto.jp/.../siteibunkazai/genporeisankankeisiryou.html
             |
             +---光延-------------延之
             |
             |  細川藤孝(幽齋)----忠興
             |   |
             +---麝香

 4月12日 棒庵出京之由候、馬被預候間飼セ候
 4月13日 ・棒庵二遣人、先伏見へ急帰由也、馬ヲ返候、肥後(加藤清正)ヨリ文共才次
        持来届候
       ・棒庵へ津軽ヨリ去年ノ文、又鶴・鮭渡遣
 4月14日 加藤清正、北政所へ礼
        肥後守、北政所へ御礼ニ被参由候、近衛殿(信尹)ヘモ被参候■
 4月20日 加藤清正ヘノ礼指南ヲ求ム
        伏見棒庵二遣人、肥後守へ礼可申為指南也
 4月24日 加藤清正ニ礼
        伏見へ加藤肥後守礼二行(中略)事外懇志也、棒庵二テ振舞アリ(中略)棒庵
        下人二人雇候
 5月5日  棒庵ヨリ一(ママ)津軽ヨリノ銀子請取二長兵衛ヲ給、則渡遣候
 5月13日 棒庵へ木内殿(葛岡)ノ儀申遣候
 5月20日 棒庵ヨリ昨日文ノ返事在之
 5月23日 加藤清正茶湯・能興行
        加藤肥後守今朝ハ茶湯、五時分ヨリ能初由也、予モ行、同簾中二テ食アリ、其後
        簾を被捲候、能八番■在之、大夫ハ少進(下間伸康)也、肥後イ(ママ)衆竹中伊豆・
        堀田若狭・村瀬左馬  等也、能果テ又振舞アリ、又予相伴也(以下略)
 5月23日 棒庵へ葛(葛岡)木内身上ノ義立談候、大方相済候
 5月24日 葛(葛岡)木内返事文ト予状相添、棒庵へ遣候
 5月26日 加藤清正、北政所ヲ見舞ウ
       北政所殿へ加藤肥後御見廻二付而、棒庵被立寄、葛(葛岡)木内身上之儀被申
 5月28日 長左衛門(真木家永)は伏見棒庵へ遣候、葛(葛岡)木内身上之儀ニ付也
 5月29日 葛(葛岡)木内之儀ニ伏見棒庵へ差遣、及晩帰京候、木内ヨリ棒庵へ文ノ義有
       往来、棒庵入夜出京、又申遣候
        
 

 
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もうけもん

2009-02-16 18:52:04 | 徒然
 所用で出かけ図書館に廻る。郷土史料コーナーに行くと、史談会メンバーお三方と遭遇。同フロアーでは本のリサイクルフェア「よかよか本まつり」が開催されていて、今日はその最終日だったらしい。しばらく歩き回って二冊の本をゲット、ありがたく拝領する。(当然無料です)
  ■斉藤文男(九州大学教授)「昭和」への別れ歌・冷めた紅茶 1988年版
  ■文:クリスティーナ・カッパ・レゴラ 絵:エットレ・マイオッティ 訳:中山悦子 
                     20世紀美術の旅 青い夜と黄色いレモン 1993年版

其の後お三方と喫茶ルームで「お茶」、お別れした後しばし調べ物をして、「もうけもん」を小脇に帰宅。
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ゴエモンの一周忌

2009-02-16 13:59:37 | 徒然
 昨日のことである。妻が愛用している籐の籠を整理していたら、亡くなった愛犬ゴエモンのステンレス製のチェーンが出てきた。偶然とは不思議なもので、明17日が一周忌である。20歳の誕生日を迎えることは出来なかったが、よぼよぼになりながらも、沢山の思い出を残してくれた。まさに家族の一員であったが、一年を経てどうやらゴエモン離れをした感じである。あちこちからの「子犬を上げようか」との話に、思わず誘惑に乗りそう気分になるが、あの辛い別れはもう経験したくないことを思うと、きっぱりお断りしている。写真のゴエモンはいつも若くて愛らしい。
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「時慶記・第三巻を読む」 -- 2

2009-02-16 12:14:20 | 歴史
■慶長八年(1603) 
 6月3日  棒庵ヨリ才次来、肥後ヨリ文持来披見候
 6月14日 棒庵ヨリ寺木内案内者ニテ披見
 7月28日 秀頼ト千姫ノ祝言
 8月4日  肥後(加藤清正)ヘ文認置
 8月5日  棒庵ヨリ預使、装束被返、肥後ヨリ文到来、使ハ此亭ニ留置、返事夜中ニ遣候
 8月6日  肥後ノ文ヲ津軽(信建)へ遣ル
 8月9日  棒庵使肥後文到来、返事遣候、十念寺へ肥後ヨリ文・艮子二包六匁届候処二
        大津へ下向ト
 8月10日 棒庵ノ才次来、下国ハ白藤所望候間掘セ遣、才次二酒ヲ進
 8月18日 肥後ヨリ津軽へ文・砂糖の壺を持セ来、予へ布一端給、使才二郎也
 9月2日  辻才次来、未棒庵ノ誂物共不出来由候
 10月24日 也足(中院通勝)来儀、三順斎ヨリ長岡越中守(細川忠興)一礼可申候、其挙状
        ヲ被申候間調下申候、則七条へ(関)喜蔵ヲ遣、直ニ西岡今里へ差遣候長岡与九郎
 10月25日 棒庵内儀ヨリ文到来、肥後ヨリ見廻■古田織部へ被上候
 12月20日 細川藤孝ヲ見舞ウ
                         慶長八年項・了
 
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「時慶記・第三巻」を読む -- 1

2009-02-15 11:05:00 | 歴史
■慶長八年(1603)
 正月22日 八条宮智仁親王御会始 御人数ハ也足・積善院僧正・烏丸弁・阿野・幽齋等也、別人無
        之、松下(述久)・佐方吉衛門又御家人斗也(略)
 2月12日 徳川家康征夷大将軍宣下式 
        棒庵ヨリ肥後使、同土産共被持、此方ヨリ内々認置文又薬酒ヲ遣候
 2月14日 予ハ加藤主計正へ礼二行(略)先棒庵二テ振舞也(略)又主計二テ振舞アリ、酒数盃、
        其後茶ヲ被振舞也、主ノ手前二テ給、夜半迄物語也
 2月15日 (略)加藤主計正ヨリ為返礼(略)棒庵迄遣状、主計ハ北政所御礼次ト也
 2月18日 棒庵出京来儀、夕食ヲ振舞テ返、(中略)棒庵見挙内儀へ紙 束
 2月27日 道増三十三回忌追善連歌
        ・・三長老(道圃霊三)の名が見える・・
 3月15日 主計正ハ大阪へと也、棒庵モ同
 3月21日 徳川家康二条城ニ入ル
 3月24日 加藤清正ヲ見舞ウ
       ・加藤主計正へ見舞二六条本国寺へ越
       ・(白藤)棒庵ヘモ遣候
       ・此亭(勧修寺)へ棒庵来儀、加藤主計へ儀申渡候
 3月25日 徳川家康参代(略)加藤清正ヲ見舞、内々ノ指南スル
       ・加藤主計、阿野(実顕)二テ支度也、行テ見舞、御所ニテモ休息ノ所ヲ内々指南候
       ・右府(家康)車二テ御参、諸大夫ハ直垂也、随身八人騎馬也、供ノ衆堂上五人、
        越前宰相(結城秀康)・長岡宰相(細川忠興)・京極宰相(高次)・池田宰相(輝政)・
        福嶋(正則)以上ト、(以下略)
 3月26日 諸大夫衆・四品八人衆御礼アリ、加藤肥後守(清正)ヘハ御礼ノ書立ヲ■遣、勧宰相
        ヨリ注被持候、此方へ可来由候処、又阿野二テ装束ノ由候、昨今予袍ヲ肥後守へ借
        遣候、振舞ノ雖用意無是非、棒庵斗来儀也(中略)  棒庵ヨリ狩衣・烏帽子等被預
        (以下略)
 5月14日 清正ニ貸シタ装束ヲ返サル
        棒庵ヨリ預使札、先度肥後守(清正)へ借遣候装束被返候、小姓八也、肥後へ文共認、
        肥後
ヨリモ文共到来也
 5月18日 棒庵預使、則宿へ行
 6月3日  棒庵ヨリ才次来、肥後ヨリ文持来披見候
 6月14日 棒庵ヨリ寺木内案内者ニテ披見
 
 
      
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「時慶記・第三巻」を拾い読み

2009-02-14 10:04:03 | 歴史
 時慶記の一・二巻については、当サイトに於いて「時慶記にみる下津棒庵」で関係する部分をご紹介した。西洞院時慶と下津棒庵の親しい関係が伺われる。第三巻を拾い読みしても、所々に棒庵が登場するのだが、人名索引では、棒庵の欄には「棒庵→下津宗秀」とあるが、その下津宗秀の項がない。明らかな編集ミスでこれはいただけない。
棒庵は加藤清正と行動を共にしており、この清正については20ヶ所に於いて其の消息が伺える。
 細川家はといえば、幽齋が3ヶ所、忠興が2ヶ所と至って少ない。松下述久(2ヶ所)・佐方吉衛門(1ヶ所)の名前が見えるが、これは二人が幽齋に随伴し八条宮智仁親王の御会始に出席している(慶長八年正月廿二日)記事に於いてである。

 慶長八年正月から九年十二月にかけての人の動きが、実にリアルに窺えて大変興味深い。
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熊日出版文化賞

2009-02-13 14:44:01 | 書籍・読書
第30回熊日出版文化賞が発表された
   ■僕が写した愛しい水俣 塩田武史著 岩波書店
   ■西南戦争         猪飼隆明著 吉川弘文館
   ■定本・熊本城       富田紘一監修 郷土出版社

 「定本・熊本城」は、築城400年という節目に刊行されたこともあって、多分受賞するだろうと素人ながら思っていたのだが・・・当たった。しかし高い(値段)、ちょっと手元に置く気にはならないでいる。
     www.mcci.or.jp/www/kyodo/shun/kumamoto.html
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北野天神縁起を読む

2009-02-13 10:05:48 | 書籍・読書
北野天神は細川家との係わり合いが所々に伺える。家臣にも其の一族が召し出されている。


北野天神縁起を読む (歴史と古典)

竹居明男編  四六判・288頁・原色口絵4頁
定価2,490円(税込)


(以下内容については、株・吉川弘文館のHPより引用する)

文人貴族の栄華から左遷の悲劇、死後雷神となり天神に祀られる菅原道真の伝記と神格化への過程が描かれた、『北野天神縁起』。歴史と伝承が複雑に交差したストーリーのすべてを、数多く制作された絵巻にも注目し、史実や時代と関連させて読み解く。『縁起』を一つの文学作品として取り上げ、後世への多彩な影響も考えた初めての試み。
〈主な内容〉
北野天神縁起とその時代…竹居明男
�=北野天神縁起を読む―史実と伝承―…竹居明男
菅原道真の生涯
菅公の怨霊と北野天満宮の創立
天神信仰の御利益
�=北野天神縁起の世界
寺社縁起としての北野天神縁起…吉原浩人
北野天神縁起と神仏習合思想…三橋 正
地獄絵・六道絵の歴史の中の北野天神縁起絵巻…菅村 亨
�=中世・近世における北野天神縁起
中世における北野天神縁起絵巻の制作―承久本から光信本へ…須賀みほ
近世における北野天神縁起絵巻の制作…鈴木幸人
北野天神縁起と中世・近世の文芸および芸能…渡辺麻里子
コラム…竹居明男
伝菅公遺品/天神さんと梅/天神さんと牛/「天神さんの細みち」
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