津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寄稿‐小川研次氏「岫雲院春日寺」

2023-06-18 06:06:50 | 小川研次氏論考

      かっての岫雲院春日寺

 ご厚誼をいただいている小倉在住の小川研次氏から寄稿いただいたのは6月10日のことである。
引っ越しを前にして些か多忙を極め、心ならずもご紹介が遅れてしまった。
お詫びを申し上げるとともにいつもながらの氏の健筆に敬意を表しここにご紹介を申し上げる。 津々堂

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

            岫雲院春日寺                       
                                      小川研次


        熊本県熊本市西区春日にある臨済宗大徳寺派の寺であるが、熊本市観光政策課による案内板
       にこのように記されている。
       「寛永九年(一六三二)に肥後の国主となった細川忠利は春日寺を再興して岫雲院の名を与え
       たので、以後は岫雲院が正式な名称となった。忠利の死後、遺言によって遺骸をこの寺で荼毘
       に付した。そのとき放たれた愛養の二羽の鷹の
うち「有明」は火葬の焔の中に飛び込み、「明
       石」は傍の井戸の中に飛び込んでともに殉死し
たという哀れな物語が伝えられている。森鷗外
       の「阿部一族」で知られている忠利の殉死者十
九名の位牌も、この寺に安置されている。」
       「鷹の殉死」から、この説明文は森鴎外『阿部一族』の種本である『阿部茶事談』に拠ってい
       ると考えられる。
       さて、鷹のエピソードは別として、この寺には興味深い二つの墓碑が建っている。
       大友宗麟次男の親家(利根川道孝)と三男親盛(松野半斉)の墓である。
       親家は慶長十四年(一六〇九)、客分格として招かれ、親盛は慶長十一年(一六〇六)、小倉
       藩細川家より千石で召し出されてた。(「於豊前小倉御侍帳」)
       敬虔なキリシタンであった兄弟の墓がなぜ、「岫雲院」に建てられたのであろうか。
       忠利の「火葬場」との関連とは何であろう。
       まず、忠利は遺言により自身の火葬場としていたことから、岫雲院の和尚と親しかったことは
       間違いないだろう。この時の和尚は中興の祖とされる「涓雲」である。(「岫雲院資料」)
       涓雲は文禄・慶長の役(一五九二~)に加藤清正に伴い朝鮮に渡っている。帰国の時、王城の
       庭にあった石を袂に入れ、持ち帰って庭に置いていたら、一尺半の大きさになったという「袂
       石」の伝承を残す。(『肥後国志』)
       寛永十八年(一六四一)三月十七日、忠利が逝去、遺体は五月十三日に荼毘とされる。翌年十
       一月に嫡子光尚により岫雲院の西側に菩提寺の妙解寺が建立された。(『肥後国史志略』)
       しかし、忠利は遺言で菩提寺を岫雲院にしていたのではなかろうか。
       「真源院様御意に、春日寺所柄く、御参詣も御道筋宜しからず候間、寺地を外に見立て候て、
       御菩提所御建立成さるべき旨、奥田権左衛門へ仰せつけられ、方々寺地御吟味にて、鳶尾、嶋
       崎、石神辺など然るべきやと権左衛門申上げらえ候ば、是も所柄御意に叶はせれず、只今の妙
       解院の所に相究まり候。夫より当院に御影堂建立遊ばされ、山林共本高五拾石御茶湯料を御寄
       附遊ばされ、唯今に至り御霊供日日懈怠なく相備え、御廻向相勤申候事」(「春日寺記」『津
       々堂のたわごと日録』)
       また、『肥後国史』に「寺領五拾石幷山林共寄附アリ即チ妙解寺領ノ證判一紙ニ有之其時末寺
       ニ属ス」とあり、岫雲院が地続きの妙解寺の末寺となった。
       光尚から寺地吟味の命を受けた奥田権左衛門は豊前小倉藩のキリシタンの柱石であった加賀山
       隼人(一六一五年小倉で処刑)の甥であり、聟であった。隼人亡き後のキリシタン後継者と目
       された人物である。
       また、忠利に殉じた阿部弥一右衛門の相役であった。(「真説・阿部一族の叛」)権左衛門は
       大友兄弟と共に寛永十三年(一六三六)七月十三日に転宗の証文(「勤談跡覧」『肥後切支丹
       史』)を出しているが、果たしてキリスト教を棄教したのだろうか。
       時代は下り、慶安四年(一六五一)、権左衛門の実兄加賀山休悦が江戸の訴人によりキリシタ
       ンとして訴えられたのである。この時、他に四名いたが、捕縛され長崎へ送られた。
       しかし、長崎奉行所の穿鑿があったが、「別条無し」とのことだった。休悦は明暦三年(一六
       五七)に病死している。(『肥後切支丹史』)
       訴人は何らかの根拠があったと思われる。前年は光尚急逝により、嫡子六丸(綱利)が相続し
       た年である。また、大目付林外記一家が討ち果たされた年でもある。阿部一族誅伐と同様に藩
       主死後に起きている事件であり、政治的背景があったと考えざるを得ない。光尚はあえてキリ
       シタン権左衛門に「神聖なる地」を求めさせたのか。
       さて、大友兄弟の墓であるが、親家の命日は寛永十八年三月二十五日となっており、忠利逝去
       の八日後である。享年八十一歳。戒名は「○万里一条銕本地院殿小菴道孝大禅定門」とある。
       (『戦国人名辞典』)
       親盛は寛永二十年一月十四日で、二年後となる。「阿部一族誅伐事件」のおよそ一月前である。
       戒名は「卍梅林院殿元参道悦居士」とあり、享年七十七歳。
       二人の墓には妻と思われる墓が添うように並んでいる。兄弟は忠利と共に岫雲院を菩提所と決
       めていたのであろう。
       ちなみに阿部事件の日に光尚は「松野右京」邸にいた。(『阿部一族』『阿部茶事談』)この右
       京は大友宗麟嫡子義統の三男である正照で、親盛の養子となっていたが、独立し知行を得てい
       る。(「於豊前小倉御侍帳」) 右京もキリシタンであった。(『肥後切支丹史』)
       寛永十一年(一六三四)、細川家家臣志賀左門(大友一族)の家に志賀休也という筑後の浪人
       が寄宿していた。この時、春日寺(岫雲院)の書物(仏教徒である証文)を持っていたという。
       しかし、寛永十二年(一六三五)十二月二十三日、キリシタン容疑で小笠原玄也一家(妻は加
       賀山隼人の娘)と共に禅定院で処刑されたのである。左門はこの翌年、大友兄弟、右京、権左
       衛門、休悦らと七月に転宗している。(『肥後切支丹史』)
       ここで考えられるのが、岫雲院が書物を出すということは、キリシタンに協力的だった証では
       なかろうか。
       岫雲院には大友兄弟、奥田権左衛門、志賀休也という敬虔なキリシタンが関わっていた。
       また、当時は忠利の御影堂もあり、阿部弥一右衛門を含む十九人の殉死者の位牌も安置してい
       ることからして重要な場であったに違いない。
       寛永元年(一六二四)十月の忠利達書に「はうほらのたね」を長崎に求めている記述がある。
       (『永青文庫叢書細川家文書近世初期編』)
       「はうほら」はポルトガル語の「Abobora」(ボウボラ)であり、カボチャの意である。
       かつて、春日寺の周辺には「春日ぼうぶら」として、この一帯に畑が広がっていたという。
       現在、「春日三丁目ぼうぶら公園」と名付けられ、忠利の想いが伝えられているのではなかろ
       うか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文化十二年六月十七日・奉行所達

2023-06-17 06:49:44 | 史料
 鎌倉に細川家ゆかりのお寺があるという話に触れたのは、もう十年ばかりも前のことである。
いろんなワードを打ち込んで行き着いたのが「妙法寺」であり、随分古い歴史を持つお寺らしいことが判明した。
ウイキペディアでこの「鎌倉・妙法寺」を拝見すると、「本堂は文政年間、肥後細川家により、幼くして亡くなった細川家息女の菩提を弔うため建立された」とある。
文政年間に亡くなられた息女となると、齊茲女の耈姫や斎樹女の篤姫が該当するが、耈姫は熊本の泰勝寺に父君の脇に埋葬されているから該当者ではない。
そうすると篤姫のことであろう。この姫は齊樹の二人の娘は側室の腹に生まれた年子の妹(姉は早世)だが、齊樹の正室・紀姫が養女にしたと細川家記は記している。

 一方、度支彙凾(文化八年より十四迄 法令條論)「八〇〇」に次のような記事があるのを発見した。

一篤姫様御事、此節御前様御養女ニ被遊候ニ付、右之段御用番之御老中様え参月廿一日被遊御届候、依之御中老以上、
 篤姫様と可奉稱旨被仰出候段従江戸申來候條、奉得
其意、觸支配方えも可被達候、以上                  

  (文化十二年)亥六月十七日    奉行所

篤姫は細川齊樹二女(生母・坂内氏慶)宇土支藩藩主立政(後の本藩藩主・齊護)と婚約するも早世、14歳 
御前様とあるのは細川齊樹室・紀姫(一橋大納言治済女ー徳川家斉妹)である。
齊樹にとっては、側室の子ながらただ一人の子であり、正室の紀姫がその女を養女とした経緯が記されていた。
ウイキペディアによると、妙法寺は徳川家ゆかりのお寺であるとともに、家等の崇敬を得ていたとされる。

篤姫は紀姫の養女ながら、家齊つながりで本堂までも建立されて祀られている。奇特なことではある。

        
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御扶持方御切米御帳(17)

2023-06-16 08:45:55 | 史料

   鶴崎船頭衆

一 四人扶持拾六石         野原長三郎
一 四人扶持拾壹石         河村弥右衛門
一 四人扶持拾石          舟下五郎兵衛
一 右同断             岐木九兵衛
一 参人扶持拾五石         中嶋弥吉
一 三人扶持拾石          吉田理兵衛
一 右同断             袖野九右衛門
一 右同断             三木清太夫
一 右同断             吉田市右衛門
一 右同断             風斗五兵衛
一 右同断             武井勘助
一 右同断             東 次助
一 右同断             加来久次郎
一 右同断             古野次郎助
一 貮人扶持拾石          河村喜右衛門
一 参人扶持拾石          三宅清助
一 右同断             石川彦右衛門
一 右同断             相川新平
一 右同断             松岡半兵衛
一 右同断             渡邊四郎兵衛
一 右同断             林 九郎左衛門
一 右同断             富田七蔵
一 右同断             二宮弥左衛門
一 右同断             岐志忠兵衛
一 右同断             吉田理右衛門
一 右同断             手島喜助
一 右同断             水橋左次兵衛
一 右同断             藤田清兵衛
一 参人扶持九石          田邊長助
一 右同断             石松作内
一 五人扶持八石          小今井太左衛門
一 三人扶持八石          尾崎吉助
一 右同断             續 仁右衛門
一 右同断             小出惣左衛門
一 右同断             中鶴仁左衛門
一 右同断             中野子次右衛門
一 右同断             井上十右衛門
一 右同断             桑田左兵衛
一 右同断             磯部新左衛門
一 右同断             原 茂左衛門
一 右同断             加賀角右衛門
一 右同断             速水次左衛門
一 右同断             山形角左衛門
一 右同断             林田作左衛門
一 右同断             高木甚左衛門
一 右同断             福浦久太夫
一 右同断             土屋加右衛門
一 右同断             中野弥兵衛
一 右同断             岩本猪右衛門
一 右同断             小篠佐右衛門
一 右同断             相部忠左衛門
一 右同断             小南猪兵衛
一 右同断             相部少太夫
一 右同断             三浦甚兵衛
一 右同断             島崎作兵衛
一 右同断             西村吉兵衛
一 右同断             松田喜兵衛
一 右同断             草野少右衛門
一 右同断             山本善左衛門
一 貮人扶持三石          松村久兵衛
一 貮人扶持八石          石井又左衛門
一 右同断             吉田市助
一 右同断             福浦七右衛門
一 右同断             坂本茂右衛門
一 貮人扶持六石          田村善兵衛
一 参人扶持六石          岐木八兵衛

(河尻・鶴崎御船頭衆 合)
〇御扶持方合参百人扶持        ママ
〇御切米合九百拾七名(石ヵ)    人数百人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和九年」を読む (2)

2023-06-16 05:18:12 | 先祖附

 忠興(三斎)文書-元和九年

373、八月十六日書状(於、吉田)
 ・英山座主忠有ノ僧正昇任ヲ擧申ス   日野大納言輝資の次男の玄賀を細川忠興の猶子とし、舜有座主の孫女.・昌千代と婚姻

374、八月廿日書状(於、吉田)
 ・坊丸(後・細川立孝)ヘノ鷂贈与について

375、(七・八月頃カ)廿日書状(於、吉田)
 ・松平忠政ヨリ鷹

376、八月廿三日書状(於、吉田)
 ・家光伏見還御、西国衆暇乞参上ノ日限ヲ報ズベシ

377、(八月)廿三日書状(於、吉田)
 ・明日西国衆伏見参上

378、八月廿八日書状(於、吉田)
 ・伏見城ニ家光将軍職補任ヲ賀
 ・忠利ノ帰国ハ土井利勝招請ノ後随意タルベシ
 ・浅野長晟ニ鷹ヲ贈ル
 ・戸田氏銕へ贈与ノ鷹ノ処置ヲ忠利ニ任ス、大鷹ヲ遣フ意ナシ

(閏八月一日、忠利京都ヲ發シテ帰国、三斎モ次イデ帰国)

379、閏八月十七日書状(於、中津ゟ小倉へ)
 ・忠利室病ム、少峯并ビニ永勝院ヲ遣ス
 ・廿日比立花宗茂小倉到着

380、閏八月廿日書状(於、小倉)
 ・戸田氏銕ニ贈与ノ鷹ヲ忠利へ届ク

381、八月廿八日書状(於、小倉)
 ・来年江戸・京・中津作事ノ為、家中借米ノ取立ヲ求ム
 ・小倉祇園能ノ為下向中ノ小鼓打ヲ借リタシ
 ・咳氣ノタメ喜齋ノ薬ヲ用フ
 ・松井右近女ト山路太左衛門ノ縁談、太左衛門同心     松井右近、細川興秋介錯後行方不明

382、九月五日書状(於、小倉)
 ・重陽ノ祝儀、令祝着

383、九月八日書状(於、小倉)
 ・筑後蠣・御所柿ナド給満足

384、九月十三日書状(於、小倉)
 ・梅若六郎下向
 ・役者・太鼓打等ニ付テ

385、九月廿日書状(於、小倉)
 ・烏丸光賢(忠興女萬姫聟)下向ノ予定

386、九月廿一日書状(於、小倉)
 ・大阪牢人赦免ノ京都所司代達写ヲ見ル、小河四郎右衛門・熊谷権太夫・長屋安左衛門等ノ召抱タシ
(閏八月廿六日、幕府、慶長元和大坂合戦ニ籠城ノ新参牢人ヲ赦免ス)
 ・嶋津家久宛書状ヲ依頼ス

387、九月廿三日書状(於・小倉)
 ・四年前隠居ノ前、小河四郎右衛門・熊谷権太夫・長屋安左衛門等ノ召抱ヲ約ス
 ・借銀千貫目アリ新規召抱困難ノ由、(上記三人ハ)三斎無役ノ隠居領ニテ知行ヲ遣サン

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■一月前に購入した本を・・・・

2023-06-15 18:05:16 | 書籍・読書

                   

 一月ほど前、某書店に平積みされている本の中の、妖艶女性の微笑の表紙についつい惑わされてこの「脳の闇」を購入してバッグに入れたまま引っ越し準備ですっかり忘れていた。
時折TVなどでもお見掛けする脳学者・中野信子氏の著作だが大変な美女でいらっしゃる。天は二物を与えた。
「帯」には「人間の厄介さを知っていますか」とあるが、その答えは80過ぎの爺様でも美人をみるとフラッとしてしまうという事だ。
バックを開いて気が付いて、パラパラを目次を拝見、今晩から読み始めようと思う。
引っ越し荷物の本や資料が棚に収まらなくて、また本の処分を考えなければならない。資料も再度目を通して必要なものはスキャンして、処分しようと思っている。
じっくり読書する余裕はまだまだ先のことになりそうだが・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御扶持方御切米御帳(16)

2023-06-15 06:55:43 | 史料

   河尻御船頭衆

一 四人扶持拾五石        野間八左衛門
一 四人扶持拾三石        渡邊七郎左衛門
一 四人扶持拾石         久間平兵衛
一 三人扶持拾五石        手島茂太夫
一 三人扶持拾四石        河野五太夫
一 三人扶持拾石         島田甚太夫 
一 右同断            三宅新助
一 右同断            三宅孫左衛門
一 右同断            佐川少兵衛
一 右同断            小山甚左衛門
一 右同断            高見善兵衛
一 右同断            吉瀬金左衛門
一 右同断            宮本佐次兵衛
一 右同断            竹田忠左衛門
一 右同断            松田七郎兵衛
一 右同断            橋本左太郎
一 右同断            武井三蔵
一 右同断            中村五郎兵衛
一 参人扶持九石         渡邊忠右衛門
一 参人扶持八石         中島太郎左衛門
一 右同断            山口吉兵衛
一 右同断            島田理左衛門
一 参人扶持九石         田中作兵衛
一 参人扶持八石         郡 喜三郎         
一 参人扶持六石五斗       林 勘兵衛
一 右同断            河村久太郎
一 三人扶持六石         古野勘七
一 右同             中屋伊右衛門
一 右同             上田太郎兵衛
一 右同             野間三太夫
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■六月十四日は祇園会也

2023-06-14 06:39:10 | 熊本

          かっての祇園古社(現・北岡神社

 天和三年(1683)熊本藩士・山崎半彌が記した『歳序雑話』には、現在の北岡神社ーかっての祇園社の例大祭の賑わいぶりについて、次のように記している。(原文は白文ー津々堂訳)
十四日に到りクライマックスの還幸行列が行われたという。
                                  わか
   十四日は祇園会也、七日より十三日に至ル、社頭ニ詣デ尊卑於道路ニ支ルコト竹葦ノ如ク稲麻ニ似タリ、一駄橋ノ
   前後、社壇ニ及マデ茶店ヲ構エ、仮屋ヲ飾リ種々ノ売買ノ珍異、玩弄ノ具物、酒肴ヲ置時果ヲ備エ、来往
ノ求ヲ俟
   ツ、又道ノ傍ノ乞食人、声々ニ一銭ヲ求ム、是國初ヨリ河原ノ地ヲ卜穆シ、曾テ世ノ交リ無シ、故
ニ寛仁ノ世ニ至
   テモ猶斯ノ如ク乎、往反朝ヨリ暮ニ至リ、暮ヨリ明ニ達ス、夜々月光明々、水色清々、涼風袖ヲ翻
ス、故ニ遊舟ニ
                          
   棹シ、坪井ノ流ヲ降リル、一駄橋ノ下ニ至リ、棹ヲ閣キテ往還ノ行粧ヲ見レバ、多々舟中酒
ヲ置キ、吟風弄月楽ヲ
                      しょうこ
   以テ尽ス、亦女童ノ商売ノ遊船傍ニ有リ、倡瞽ハ淫楽ノ器ヲ鳴シ、淫風ノ歌ヲ
謳ウ、種々其ノ求ムルハ一種ニ非ザ
   ル也、陸者ハ舟中ヲ窺ヒ、舟者ハ陸路ヲ仰グ、述ベキ情患耳ヲ忘ル、祭日ハ両
座ニ於テ申楽ノ能ヲ興行ス、舞台上
   下ノ桟敷、芝居ノ結構、巨細毫ヲ以テシ難シ、六曹ノ一人上ニ代リテ至リ見ル
焉士長群臣列ヲ曳キ席ニ著ス、臘次
   ヲ敢テ乱サズ、其式御所ノ体ト異ル莫シ、楽七番ヲ以テ限ト為ス

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■引越しました

2023-06-13 05:41:51 | 自分史

 11日なんとかかんとか引っ越しを完了いたしました。
ブログを二日ほどお休みする結果となりましたが、Wifiの変更を設定する時間さえない有様でご迷惑をおかけいたしました。
思いがけず大歓迎を受けたのは、夜中の「わくど」の大合唱でした。まさに「筑波山麓合唱団」さながらです。
眼下の水無川「健軍川」が今は梅雨の雨で流れを作って、川の風情を為していますが、陽が完全に落ちたあたりから処々で練習が始まり、22時~4時頃までは大合唱です。
初日はさすがに応えましたが、二日目は疲れがつのり何とか睡眠をとることが出来ました。
丁度今の時刻、曇り空に荒がらうように太陽が顔を見せました。
引っ越し荷物の荷解きが大変で、私の部屋は本と資料の段ボールで埋め尽くされています。
そんな中にクーラーの取り付け業者の方も来宅の予定で、今日も怒涛の一日になりそうです。
毎日一日中PCの前で過ごしていましたが、まだまだそういう具合には参りません。
それでも、ブログは正常に戻したいと思います。
先ずはご報告、81爺は老体に鞭うって頑張っております。ご休心下さいませ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本史談会・令和5年6月講演会の御案内

2023-06-13 05:35:37 | 熊本史談会

        熊本史談会・令和5年6月講演会の御案内
                            熊本史談会・会長 毛利秀士

 例年に比べ早い梅雨の入りとなりましたが、災害などのない様に念ずるばかりです。
当熊本史談会の月例講演会開催に就きまして、いつもながら多大なご声援をいただき厚く感謝を申し上げます。
6月例会にあたりましては、西南戦争についての第二回目として、勇 知之先生にご講演いただきます。
新出史料もお持ちいただきますので、ご興味ある多くの皆様にご参会いただきたくご案内を申し上げます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

                 記

期日:令和5年6月17日(土)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
場所:熊本市民会館 第5・6号会議室

演題:「西南戦争の真実」‐西郷の死・敗北の原因・戦争が残したもの、そして新事実
講師: 歴史家・作家・西南戦争研究家   勇 知之 氏           

一般参加自由:
    先着20名様、事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
    尚、講演前に当会の例会を催しますので、入場は開演10分前からとさせていただきます。

    又、マスクの着用は随意と致しますが、ご記名をお願いいたします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御扶持方御切米御帳(15)

2023-06-10 06:57:30 | 先祖附

諸職人

一 貮拾人扶持        御鉄炮屋 宮村出雲・・・・・・・・・・・・・・田辺城籠城衆
一 拾人扶持          同   宮村七兵衛
一 右同断           同     清兵衛
一 右同断          御具足屋   忠兵衛
一 五人扶持          同   春田屋理兵衛
一 右同断           同     次郎左衛門
一 右同断           同     市左衛門
一 拾人扶持石             大道但馬休庵     (刀剣)
一 五人扶持              大道左兵衛      (同上)
一 拾人扶持              宣貞傳左衛門     (同上)
一 拾人扶持貮拾五石   御石火矢はり 前崎仁兵衛
一 四人扶持拾五石      御鞍うち 右田加右衛門
一 三人扶持          同     傳七
一 六人扶持貮拾石       御大工   作右衛門
一 五人扶持拾五石       同   横山次兵衛
一 四人扶持拾石        同   松原次郎左衛門
一 三人扶持拾五石       同   三澤喜左衛門
一 三人扶持拾石        同   寺廻仁左衛門
一 三人扶持七石        同     久左衛門
一 三人扶持          同   横山清兵衛
一 右同断           同   松原次郎右衛門
一 三人扶持拾石        御左官 内田新蔵
一 三人扶持五石 但江戸ニ相詰候時ハ壹人扶持御切米
         七石増被進候 同   湯川加右衛門
一 右同断     右同理   同   小森与兵衛
一 貮人扶持八石        瓦ふき 矢田部角左衛門
一 右同断           同   橋本助兵衛
一 貮人扶持八石   御数寄屋こもあみ 永峯仁兵衛
一 四人扶持拾五石    川尻御舟大工 若井久右衛門
一 右同断           同   林田九兵衛
一 右同断           同   若井茂左衛門

一 三人扶持          同   中山少兵衛
一 右同断           同   青木半兵衛
一 四人扶持拾五石    鶴崎御舟大工 井上与三左衛門
一 右同断           同   宮山喜兵衛
一 右同断           同   野■三右衛門
一 三人扶持拾石      川尻ろ大工 矢野佐右衛門
一 右同断           同     久左衛門
一 右同断         鶴崎ろ大工   理兵衛
一 貮人扶持八石        同     藤次郎
一 六人扶持拾五石      御ぬしや 白樫左兵衛
一 三人扶持三石        同     太郎助
一 五人扶持          同     七左衛門
一 三人扶持          同     作兵衛
一 右同断           同     与助
一 拾人扶持          さや師   次郎兵衛
一 六人扶持          銀屋    彦丞
一 拾人扶持         長崎銀屋   道助
一 三人扶持拾石        金具や   長七
一 三人扶持九石        同     左兵衛
一 拾人扶持          同     新五郎
一 三人扶持          とき屋   加兵衛
一 貮人扶持          御鍛冶   新六
一 三人扶持         御柄巻屋   権兵衛
一 四人扶持          糸屋    吉助
一 五人扶持          御釜屋   長兵衛
一 拾人扶持貮拾石      御引物屋   角引
一 貮人扶持五石       御青貝屋   権左衛門
一 三人扶持         かさりや   加右衛門
一 三人扶持三石        紺屋    太郎兵衛
一 右同断           同     清十郎
一 右同断           同     加右衛門
一 拾人扶持          へに屋 津貝太左衛門
一 三人扶持       なめしかわや   次郎右衛門
一 右同断           同     喜左衛門
一 右同断           同     次兵衛
一 右同断          御かわや   藤右衛門
一 右同断                                        御畳屋   次左衛門
一 右同断           同     理兵衛
一 三人扶持五石      御畳表うち 神原長兵衛
一 貮人扶持五石        同     長助
一 右同断           同     助市
一 壹人半扶持五石    御畳さし手傳   仁左衛門
一 右同断           同     甚右衛門
一 右同断           同     弥兵衛
一 貮人扶持三石      山鹿紙すき   藤左衛門
一 右同断           同     市左衛門
一 右同断           同     弥兵衛
一 右同断        玉名郡紙すき   孫兵衛
一 右同断           同     市丞
一 右同断           同     市右衛門
一 右同断           同     少左衛門
一 右同断           同     市次郎
一 右同断        らうそくかけ   七郎兵衛

〇御扶持方合三百六拾壹人半扶持
〇御切米合四百四拾八石
   外ニ貮人扶持拾四石ハ御増給扶持也
                人数八拾六人
                                   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和九年」を読む (1)

2023-06-09 10:39:50 | 先祖附

忠興(三斎)文書-元和九年

355、正月二日書状(三斎・忠利共ニ在江戸)
 ・式紙ニツキ片山宗哲室ニ問ハン

356、正月廿護日書状
 ・花入ノ鑑定、
 ・高価ナラバ不用

357、二月十四日
 ・眩暈癒ラザル為剃髪ナラズ
 ・少時モ頭巾ヲ放得ザル為来客ヲ断ル

358、二月十九日
 ・酒井忠勝ヲ招クニツキ相客ノ人選ヲ諮ル

359、三月四日書状
 ・病中ノ中山照守ヨリ清心圓ヲ所望セラル、モシ今大路道三ノ薬ニ當ル時清心圓服用ノ故ト取沙汰アラン事ヲ憂ウ

360、三月十九日書状
 ・立花宗茂ヨリ茶入レ贈与之申入アリ
 ・世上ノ取沙汰ニナラバ一興ナリ

361、三月廿二日書状
 ・立花宗茂へノ返書ノ指示

362、三月(日未詳)書状
 ・立花宗茂ヘノ懇意、満足

363、四月五日書状
 ・妻木之徳ヨリ本多忠政来訪ノ意ヲ傳ヘラル
 ・小笠原忠知(忠利義兄弟)及ヒ相客ヲ招キタシ

364、五月三日書状
 ・加々爪忠澄ヨリ稲葉一通女(忠利孫女)ノコトヲ尋ネラル

365、五月(日未詳)書状
 ・略

366、(月日未詳)
 ・略

367、六月七日書状
 ・為見舞(丹後紬)令満足、
 ・氣相少好ユヘヤガテ上洛スベシ

 (三斎江戸出立、上洛)

368、六月廿日書状
 ・上洛ノ途中池鯉鮒ニ在リ        日本橋から330㌔、当時では10日の日程を擁したとされる、
 ・宿ヲ烏丸通リニ取ル、知行取ノ家来八九人ヲ聖護院ニ置キタシ

369、六月廿二日書状
 ・亀山ニ着ス
 ・(秀忠六月八日二条城入)廿五日参内

370、六月廿三日書状
 ・甲賀郡石部ニ在
 ・廿二日、土山ニテ書状ヲ披見ス
 ・明日聖護院ニ参著(6月24日京都到着す)

371、七月廿一日
 ・忠利之小笛・太鼓打之者、今夕此方へ廻附ヲ乞ウ

372、八月五日書状
 ・加々爪忠澄ニ所望ノ石場ヲ遣スベシ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■天正十年六月九日光秀書状

2023-06-09 06:53:59 | 史料

            

 明智光秀による織田信長弑逆事件「本能寺の変」が起きたのは天正十年(1582)の六月二日、上記書状は有名な光秀が細川藤孝・忠興父子に味方をするように要請した書状である。
日付は六月九日であり、事件勃発から七日が経過している。私が不思議に思うのは、娘(玉=のちガラシャ)の婿に対して助力を頼むのは当然のことだが、いかにも遅すぎる。この時間の経過は何を意味しているのだろうか。
事件の一報を得て忠興は元結をきったというが、それは書状の日付の日か?翌日か?、三成はそのことを聞いて初めての書状としてこの書状を発したとは思い難い。
数度のやり取りがあったのではないか。何故その書状は残されていないのか?紛失したとも思えないから故意に処分されたのかもしれない。
研究者の方々の研究知見に加えて、作家・小説家は言うに及ばず、市井の好事家たちの私見も入交り諸説紛々、この事件の真相のほどはまだまだ闇の中にある。

 本能寺の変から441年の月日が流れた。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■あと三日となりました

2023-06-08 09:23:23 | 先祖附

 引越し迄あと3日となり、家具や本棚は空っぽになり、それに代わってダンボールが所狭しと並んで山を為している。
荷づくりのせいでギックリ腰の状態がかんばしくなく、悲鳴を上げながらそれでも荷造りをしなければならない現状に、この年になってからの引っ越しの辛さをしみじみと感じている。
娘の「断捨離・断捨離」の掛け声に、相当な量のものを処分したがなんといっても80余年の生きた証で捨てがたく、今日まで持ち続けてきたものもある。
「三年使わないもの・着ないものは捨てなさい」との娘のご託宣に、「老いては子に従え」の教えの如くに爺様は従順である。
どうやら11日(日)の当日は雨模様のようで、業者の皆さんにはご迷惑な事だが、荷物が入ればあとはのんびりと本や資料の仕分けをすればよい。

ブログについては一両日お休みの可能性がありますがお許しください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御恵贈御礼「家系研究」

2023-06-08 08:50:23 | 書籍・読書

  家系研究協議会様から会誌「家系研究・第75号」と「会報・第84号」をお贈りいただいた。深く感謝の意を表したい。
会員で細川藩士Y氏のご子孫S様のお力添えでお送りいただくようになってから数年が経過する。
いつものことながら、東京さ列皆様の熱い想いの程を感じている。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御扶持方御切米御帳(14)

2023-06-07 06:54:39 | 史料

 所々御番衆(5)

一 貮人扶持五石        川尻御茶屋番 荒木七左衛門
一 右同断              同   野間久兵衛
一 貮人扶持四石       同所御舟小屋番   文右衛門
一 右同断           同所御材木番   彦右衛門
一 三人扶持拾石        同所川口ノ番 林田喜左衛門
一 右同断              同   波田九左衛門
一 貮人扶持七石           同   河崎善左衛門
一 貮人扶持拾石           同   阿部三丞
一 貮人扶持七石       飽田近津浦御番 加来太兵衛
一 三人扶持拾石       同 小嶋ノ御番 工藤忠太夫
一 貮人扶持拾石           同   安藤八左衛門
一 右同断            高橋川口番 三浦与左衛門
一 右同断              同   柳 佐右衛門
一 三人扶持拾石         飽田白濱番 北里仁左衛門
一 貮人扶持六石         玉名大浜番 中川八右衛門
一 貮人扶持拾石        山鹿御茶屋番 西村五郎兵衛
一 右同断            高瀬川口番 西 勘右衛門
一 貮人扶持拾石           同   大畑長右衛門
一 右同断           玉名清源寺番 高濱木工兵衛
一 右同断              同   青井十右衛門
一 三人扶持拾石        玉名大浜ノ番 森 五郎右衛門
一 右同断              同   矢崎安太夫
一 貮人扶持拾石        同三池口ノ番 野間口新左衛門
一 右同断              同   大畑勘丞
一 三人扶持拾石        同杉本口ノ番 熊谷十左衛門
一 貮人扶持拾石           同   江藤小左衛門
一 三人扶持八石        同九重口ノ番 白石勘左衛門
一 三人扶持拾石           同   安藤甚助
一 貮人扶持        高瀬御茶屋御門番   惣左衛門
一 壹人扶持拾石        芦北袋裏ノ番 中井作右衛門
一 貮人扶持拾石        同斗り石ノ番 古川傳右衛門  (計石)
一 右同断           同 海浦ノ番 南 彦兵衛
一 貮人扶持七石        同日奈久ノ番 舟越久太夫
一 右同断              同   澤 新兵衛
一 貮人扶持五石       小川石井樋ノ番 藤田佐左衛門
一 右同断              同   藤島仁右衛門
一 右同断                                        宇土戸馳ノ番 安藤与左衛門
一 右同断           同下り松ノ番 志井三郎右衛門
一 貮人扶持六石        宇土赤瀬ノ番 久持五郎兵衛
一 三人扶持拾石        同 三角ノ番 石井勝左衛門
一 貮人扶持拾石           同   今池清兵衛
一 三人扶持拾石        菊池つえ境番 手嶋何右衛門   (津江)
一 右同断            岩神口屋番 樋口鹿助
一 三人扶持拾石           同   中尾久右衛門
一 貮人扶持拾石           同   真鍋久兵衛
一 右同断           馬見原口ノ番 下田源左衛門
一 右同断              同   阿部彦左衛門
一 右同断          南郷川路口ノ番 石川長助
一 右同断              同   末松市兵衛
一 右同断             佐賀関番 内山十左衛門
一 右同断                  大塚孫兵衛
一 貮人扶持七石       鶴崎作事小屋番 坂本市右衛門
一 右同断         鶴崎御材木小屋番 岐賀小次郎
一 貮人扶持六石      同所御作事方物書 林 半丞
一 貮人扶持五石      同所御作事 手傳   次兵衛
一 右同断         同所   御蔵番   九左衛門
一 壹人扶持五石      同所 鍛冶方手傳   仁兵衛
一 壹人扶持六石      同所  御茶屋番   久次郎
一 壹人扶持三石 但春壹石五斗冬壹石五斗貮度ニ被遣 利ナシ
              同所   御銀番   角蔵
一 右同断    右同   同所御馬屋荒仕子   平三郎
一 貮人扶持五石      同所 御買物手傳   茂右衛門
一 右同断         佐賀關 御茶屋番   五郎兵衛
一 右同断            鶴崎川口番 矢野甚兵衛
一 右同断              同   村田忠右衛門
一 貮人扶持拾石          佐賀關番 江村理右衛門
一 右同断              同   森 傳右衛門
一 右同断              同   河本五右衛門
一 右同断              同   長橋八右衛門
一 右同断              同   坂井九右衛門
一 右同断              同   藤井八郎兵衛
一 右同断              同   益永九郎右衛門
一 右同断              同   大川市兵衛
一 右同断              同   阿部助右衛門
一 右同断              同   重留理助
一 右同断              同   池松善右衛門
一 右同断              同   原 六兵衛
一 右同断              同   高村太左衛門
一 右同断              同   渡邊久助
一 右同断              同   片山市右衛門
一 右同断              同   久行理右衛門  
一 右同断              同   田崎吉兵衛   
一 右同断              同   緒方七郎兵衛   
一 右同断              同   徳淵孫兵衛
一 貮人扶持七石           同   岡 惣左衛門
一 貮人扶持五石        御奉行所使番   九郎左衛門
一 貮人扶持八石       御花畑ノ前辻番   藤次郎
一 貮人扶持七石     尾藤長四郎脇御門番   勘四郎

〇御扶持方合七百拾余人扶持
〇御切米貮千貮百八拾九石
               人数三百四拾九人                            
     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする