かっての岫雲院春日寺
ご厚誼をいただいている小倉在住の小川研次氏から寄稿いただいたのは6月10日のことである。
引っ越しを前にして些か多忙を極め、心ならずもご紹介が遅れてしまった。
お詫びを申し上げるとともにいつもながらの氏の健筆に敬意を表しここにご紹介を申し上げる。 津々堂
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岫雲院春日寺
小川研次
熊本県熊本市西区春日にある臨済宗大徳寺派の寺であるが、熊本市観光政策課による案内板
にこのように記されている。
「寛永九年(一六三二)に肥後の国主となった細川忠利は春日寺を再興して岫雲院の名を与え
たので、以後は岫雲院が正式な名称となった。忠利の死後、遺言によって遺骸をこの寺で荼毘
に付した。そのとき放たれた愛養の二羽の鷹のうち「有明」は火葬の焔の中に飛び込み、「明
石」は傍の井戸の中に飛び込んでともに殉死したという哀れな物語が伝えられている。森鷗外
の「阿部一族」で知られている忠利の殉死者十九名の位牌も、この寺に安置されている。」
「鷹の殉死」から、この説明文は森鴎外『阿部一族』の種本である『阿部茶事談』に拠ってい
ると考えられる。
さて、鷹のエピソードは別として、この寺には興味深い二つの墓碑が建っている。
大友宗麟次男の親家(利根川道孝)と三男親盛(松野半斉)の墓である。
親家は慶長十四年(一六〇九)、客分格として招かれ、親盛は慶長十一年(一六〇六)、小倉
藩細川家より千石で召し出されてた。(「於豊前小倉御侍帳」)
敬虔なキリシタンであった兄弟の墓がなぜ、「岫雲院」に建てられたのであろうか。
忠利の「火葬場」との関連とは何であろう。
まず、忠利は遺言により自身の火葬場としていたことから、岫雲院の和尚と親しかったことは
間違いないだろう。この時の和尚は中興の祖とされる「涓雲」である。(「岫雲院資料」)
涓雲は文禄・慶長の役(一五九二~)に加藤清正に伴い朝鮮に渡っている。帰国の時、王城の
庭にあった石を袂に入れ、持ち帰って庭に置いていたら、一尺半の大きさになったという「袂
石」の伝承を残す。(『肥後国志』)
寛永十八年(一六四一)三月十七日、忠利が逝去、遺体は五月十三日に荼毘とされる。翌年十
一月に嫡子光尚により岫雲院の西側に菩提寺の妙解寺が建立された。(『肥後国史志略』)
しかし、忠利は遺言で菩提寺を岫雲院にしていたのではなかろうか。
「真源院様御意に、春日寺所柄く、御参詣も御道筋宜しからず候間、寺地を外に見立て候て、
御菩提所御建立成さるべき旨、奥田権左衛門へ仰せつけられ、方々寺地御吟味にて、鳶尾、嶋
崎、石神辺など然るべきやと権左衛門申上げらえ候ば、是も所柄御意に叶はせれず、只今の妙
解院の所に相究まり候。夫より当院に御影堂建立遊ばされ、山林共本高五拾石御茶湯料を御寄
附遊ばされ、唯今に至り御霊供日日懈怠なく相備え、御廻向相勤申候事」(「春日寺記」『津
々堂のたわごと日録』)
また、『肥後国史』に「寺領五拾石幷山林共寄附アリ即チ妙解寺領ノ證判一紙ニ有之其時末寺
ニ属ス」とあり、岫雲院が地続きの妙解寺の末寺となった。
光尚から寺地吟味の命を受けた奥田権左衛門は豊前小倉藩のキリシタンの柱石であった加賀山
隼人(一六一五年小倉で処刑)の甥であり、聟であった。隼人亡き後のキリシタン後継者と目
された人物である。
また、忠利に殉じた阿部弥一右衛門の相役であった。(「真説・阿部一族の叛」)権左衛門は
大友兄弟と共に寛永十三年(一六三六)七月十三日に転宗の証文(「勤談跡覧」『肥後切支丹
史』)を出しているが、果たしてキリスト教を棄教したのだろうか。
時代は下り、慶安四年(一六五一)、権左衛門の実兄加賀山休悦が江戸の訴人によりキリシタ
ンとして訴えられたのである。この時、他に四名いたが、捕縛され長崎へ送られた。
しかし、長崎奉行所の穿鑿があったが、「別条無し」とのことだった。休悦は明暦三年(一六
五七)に病死している。(『肥後切支丹史』)
訴人は何らかの根拠があったと思われる。前年は光尚急逝により、嫡子六丸(綱利)が相続し
た年である。また、大目付林外記一家が討ち果たされた年でもある。阿部一族誅伐と同様に藩
主死後に起きている事件であり、政治的背景があったと考えざるを得ない。光尚はあえてキリ
シタン権左衛門に「神聖なる地」を求めさせたのか。
さて、大友兄弟の墓であるが、親家の命日は寛永十八年三月二十五日となっており、忠利逝去
の八日後である。享年八十一歳。戒名は「○万里一条銕本地院殿小菴道孝大禅定門」とある。
(『戦国人名辞典』)
親盛は寛永二十年一月十四日で、二年後となる。「阿部一族誅伐事件」のおよそ一月前である。
戒名は「卍梅林院殿元参道悦居士」とあり、享年七十七歳。
二人の墓には妻と思われる墓が添うように並んでいる。兄弟は忠利と共に岫雲院を菩提所と決
めていたのであろう。
ちなみに阿部事件の日に光尚は「松野右京」邸にいた。(『阿部一族』『阿部茶事談』)この右
京は大友宗麟嫡子義統の三男である正照で、親盛の養子となっていたが、独立し知行を得てい
る。(「於豊前小倉御侍帳」) 右京もキリシタンであった。(『肥後切支丹史』)
寛永十一年(一六三四)、細川家家臣志賀左門(大友一族)の家に志賀休也という筑後の浪人
が寄宿していた。この時、春日寺(岫雲院)の書物(仏教徒である証文)を持っていたという。
しかし、寛永十二年(一六三五)十二月二十三日、キリシタン容疑で小笠原玄也一家(妻は加
賀山隼人の娘)と共に禅定院で処刑されたのである。左門はこの翌年、大友兄弟、右京、権左
衛門、休悦らと七月に転宗している。(『肥後切支丹史』)
ここで考えられるのが、岫雲院が書物を出すということは、キリシタンに協力的だった証では
なかろうか。
岫雲院には大友兄弟、奥田権左衛門、志賀休也という敬虔なキリシタンが関わっていた。
また、当時は忠利の御影堂もあり、阿部弥一右衛門を含む十九人の殉死者の位牌も安置してい
ることからして重要な場であったに違いない。
寛永元年(一六二四)十月の忠利達書に「はうほらのたね」を長崎に求めている記述がある。
(『永青文庫叢書細川家文書近世初期編』)
「はうほら」はポルトガル語の「Abobora」(ボウボラ)であり、カボチャの意である。
かつて、春日寺の周辺には「春日ぼうぶら」として、この一帯に畑が広がっていたという。
現在、「春日三丁目ぼうぶら公園」と名付けられ、忠利の想いが伝えられているのではなかろ
うか。