明確な創造神理念は、基督教の核心を保つためにも、決定的な役割を果たしています。
<福音宣教の二本柱>
先取りして言うと、基督教の究極の教えは、結局はイエスの教えになります。
イエスはイエス・キリストとも言いますね。
イエスは創造神の御子の名です.
キリストは人類の「救い主」という、職分を示す名です。
創造神から御子イエスだけに与えられた職分です。
だからキリスト・イコール・イエスとなり、基督教はイエスの教え、となるわけです。
旧約聖書はその背景を描く書物です。
そのイエスの教えを福音(グッドニュース:良い知らせ)といいます。
その知らせのエッセンスは~
「『イエスを創造神の子で救い主』という知らせを否認しないで受容すると、その霊はいのちをもって永続する」
~というものです。
その知らせ(福音)を伝える働きを、イエスは弟子たちに命じるのですが、それは二本の柱でなっていました。
① 福音を宣教すること。
② それを「しるし」で証明すること。
~がそれです。
そのことはたとえば次の聖句に現れています。
・・・・・・・・・・・・・・・
「それからイエスは弟子たちにこう言われた。
『全世界に出て行き、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。
・・・(中略)・・・信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名の中で悪霊を追い出し、
・・・・(中略)・・・、病人に手を置けば病人は癒やされます』
・・・(中略)・・・そこで彼らは出ていって、いたる所で福音を宣べ伝えた。
主は彼らとともに働き、御言葉に伴うしるしをもって、御言葉を確かなものとされた」
(マルコによる福音書、16章15~19節)
・・・・・・・・・・・・・
ここに、①宣教せよ、②それをしるしで証明せよ、という二本柱が示されています。
「しるしをもって確かなものにされた」というのは、実際には「そう命じられ、弟子が従って、働かれた」ということです。(この詳細は後述します)
それはまた、弟子たちに宣べ伝えられて福音を受容し、みずからも宣教するようになった人々にも適用される命令です。
この、②「しるし」でもって証明しながら、①教えを宣べ伝えていくところが、一般の宗教と一線を画する基督教の特質です。
<「しるし」は「証拠」>
「しるし」は、聖書では「しるしと不思議」とも記されますが、日常語では「証拠」です。
証拠と聞くと、ストレートには「(弟子たちが語る)見えない世界の事柄」を、見えるようにして示すこと、が想像されるでしょう。
それを聞く人に幻や映像をみせるなどしてね。
だがそんな幻は、イエスも見せなかったし、弟子たちも見せませんでした。
<御言葉の証拠とは?>
代わりに彼らは、超自然な事象を現しました。
その代表例が、病の超自然的な癒しです。
「悪霊追い出し」もありますが、ここでは神癒(しんゆ:創造神がなされる癒し)を主にとりあげます。
+++
超自然な癒しは、観察する人々の心理には「しるし」(証拠)になるのです。
人間は、超自然現象に直面すると、それを現す人が、見えない世界にあるスーパーパワーをもった神に通じていると、直感するからです。
それは、聞く人々の心から「口だけなら何とでも言えるサ」という気持ちを吹き飛ばします。
そして語られる教えに、文句なしのリアリティ(実在感)を感じさせます。
そういう意味で、証拠(しるし)になるのです。
<創造神理念の不明確な人にも効くが>
この心理(感情)は、「万物の創造神」という理念を明確に持たない人の心にも、一応生まれます。
だれでも、巨大なパワーらしきものを感じたら、一瞬素直になりますからね。
「笑わせるな」と思って聞いていても、その瞬間には姿勢を正します。
+++
だが、出来上がる心理は「バクゼ~ン」とした感情のままです。
不思議事象が「奇跡」として受け取られるからです。
奇跡とは、理解できない「奇異な出来事」です。
心理はそれ以上に進展することなく、認識は漠然としたままで、時とともに、その感覚は薄れていきます。
+++
もし宣教が受け容れられ、そこで基督教活動がなされるとしても、概してそれは枝葉的な要素が満載なものなります。
愛、倫理道徳、敬虔な人生などが主要テーマになったり、人格形成のための修養、美しい賛美歌、楽しいサークル活動などが主要活動になったりします。
日本の基督教活動は、概ねこの状態にあります。
それ自体、悪いことではありませんよ。
だが、道徳や人格形成だったら、もっと丁寧に縛ってくれて教えてくれる宗教は他にありますよ。
だから日本の基督教は普及しないのです。
<創造神概念が明確にあると>
けれども、万物の創造神という概念が明確に意識にある場合は事態は異なります。
万物の創造神は、天国も、宇宙も、そのなかの空も海も全て造ったスーパーパワーの持ち主です。
その方にとっては、例えば、一人の人間の脚萎えを治すなど、人が手の平にのせた髪の毛を吹き飛ばすよりも楽なことです。
衰えた筋肉を再創造してあげるだけのことですから。
創造神の創造のわざは、「創世記」の冒頭に描かれた時点に限定されないものですから。
~そういう理解が可能になります。
+++
この場合、弟子たちの宣教に伴う不思議事象は「奇跡」(奇異な出来事)ではなくなります。
「偉跡」(いせき:現れるべくして現れる偉大な出来事)となります。
『使徒行伝』には弟子たちの宣教活動にともなうしるしが記録されていますが、それらをすんなりと「事実を述べたもの」と受容できるようになります。
そういう「理解」のともなった認識になるのです。
+++
すると、上記「マルコによる福音書」の聖句が示す事態の実現に向けて、正道を進めるようになります。
詳しくは後述しますが、実際の話、当初は②の「しるし」はほとんど現れません。
にもかかわらず、実現を求めて聖句を探究・吟味する道を進む姿勢が生まれる。
そして、実際、続けるとあるとき、①宣教に、②しるしが伴う、ようになります。
+++
証拠は、宣教するのに有効なだけではありません。
宣教を受けて福音を受容した人が、受容当初の霊識を維持するためにも、役立ちます。
人間は当初の衝撃を忘れますから、以後もしるしは必要なのです。
イエスも、弟子たちの前で何度も偉跡を示しています。
+++
がともあれこのように、明確な創造神理念は、福音宣教の本道を進むために不可欠な要素となるのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます