歴史は「史実」のみの集合体なのか。「史実」の集合体が、地球という拡がりと千年単位の時間を再現するものでありえない以上、歴史だとおもっているものは何らかのコンテキストに沿ったものでしかないのではないか。それは容易に支配のための道具になってきたのではないか。歴史修正主義はどう位置づけられるのか。あたかも歴史の大きな幹として選択されたもの以外は、それに従属するものとして切り捨てられてきたのではないか。コミュニティや体験者の声、または意識は、耳という機能がない社会においては「史実」に沿わない情報として扱われてきたのではないのか。「ローカル」は「グローバル」に従属する関係だと暗黙に考えられていないか。
保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(御茶の水書房、2004年)は、そのような問いにいくつもの示唆を与えてくれるものだった。
著者は、オーストラリア北部準州(NT)のアボリジニと「共有した歴史」をもとに、「これまでの歴史」に当てはめるのではなく、「実践する歴史」、「パラレルに存在する歴史」の意義を問うていく。実際、ここで語り継がれている「歴史」は、たとえば「キャプテン・クックがNTでアボリジニたちを虐殺した」というものであり、これは明らかに「史実」に反するものだ。しかし、著者は、それをもって、「大きな歴史」に従属する、「間違っているが信じられている神話」として横に置くことは誤りだと問題提起する。実際のコミュニティではそのように語り継がれており、そして長い受苦の歴史的文脈からみれば、また彼らの世界観からみれば、「間違い」ではないというわけだ。もちろん、従来の「歴史」自体のあり方を変えようというのではなく、このような「歴史」もあるべきだという考え方である。「歴史」は誰のためのものなのか、ということか。
「人類学者デボラ・ローズは、キャプテン・クックが個人的にビクトリア・リバー流域に現れたという史実がないとはいえ、この歴史物語は正確に植民地化の不道徳性についての理解をこの地域にもたらしていると主張する。白人の法は、人の土地に出かけていって、そこの住民を殺害し、土地を盗み取るという、完全に不道徳な行為を正当化するのである。」(112頁)
オーストラリアのアボリジニ社会は非常に多くの異なるコミュニティから成るものの、モノと情報のネットワークは相当に出来上がっていた。とは言え、一見相互に矛盾する複数の歴史物語りが共奏しているという。著者は、このような歴史のあり方を、ハイブリッド的なものとして考え、何かの知識体系に基づいて「間違っている」と即断することはできないと説く。ここで引用されるのは、たとえばスピヴァクによる「自ら学び知った特権をわざと忘れ去ってみる=ときほぐす」という考えであり、そうでなくては、いずれ、支配の道具としての一元的な歴史に収斂されてしまうということだろう。
それでは、「誰かが信じていれば、それが都合のいいものであっても、デマであっても、それは歴史なのか。何でもあり、ではないのか」という疑問は当然浮かんでくる。歴史修正主義者たちが考える、独自の「歴史」も、存在を同程度に許容すべき「歴史」ではないのか、ということでもある。これに対して、著者は、テッサ・モーリス=スズキの考えを引用し、「歴史への真摯さ」を重視すべきだとする。
「モーリス=スズキは、歴史的真実は一般に歴史家が接近して記述することが可能な「外的な」客観的存在であると想定されているが、これは錯覚であると主張する。ただし、こうした錯覚が生まれるのは、歴史的真実が存在しないからではなく、歴史的真実が無尽蔵にあるからなのである。その一方で、歴史への真摯さは、歴史を探索する主体と探索される客体との関係性のうちにある。つまりここでは、歴史家が無尽蔵な歴史的真実に向かうさいのプロセスに重点がシフトしているのであり、必然的に過去に接近しようとしている歴史家自身のポジション、歴史家がもっている偏見に最大の注意を払う必要が生まれる。」(230頁)
勿論、矛盾やあやうい点はそこかしこに残るかもしれない。しかし、被差別、南京大虐殺、アウシュビッツ、沖縄戦、アイヌ征服史、従軍慰安婦、公害病、米軍による市民への無差別攻撃、そしてここでのアボリジニ征服史など、理不尽に抑圧された受苦へのまなざしが、いまだ正当なものでなく、いつでも「危険な歴史」に呑み込まれてしまう可能性があるいま、「聴くこと」を前提とした、「従属関係ではなく共奏関係にある無数の歴史」を受けとめることがとても重要ではないかとおもえる。
著者は既に鬼籍に入っている。もしご存命なら、私と同い年のはずだ。本書の出版に携わった編集者の方に聞いたところ、故・保苅氏の英語論文をもとにした本の出版や、故・保苅氏についての番組の制作がオーストラリアで進んでいるようだ。いま東京で行われているエミリー・ウングワレー展もそれと無関係ではないとのことだ。