Sightsong

自縄自縛日記

『けーし風』読者の集い(6) 沖縄の18歳、<当事者>のまなざし、依存型経済

2008-07-27 21:54:45 | 沖縄

『けーし風』第59号(2008.6、新沖縄フォーラム)(>> リンク)の「読者の集い」に参加してきた(2008/7/26@神保町区民館)。参加者は次第に増えて7人。よくこの会でお会いする方々に加え、先日「森口カフェ」(>> リンク)でお誘いした新聞記者のDさんや、児童文学作家のMさんなどが参加していて、話が膨らんでくるのが非常に面白い。終わった後の飲み会には24wackyさん(>> リンク)もお誘いして乱入してもらい(笑)、また盛り上がった。

今回の特集「沖縄の18歳に伝えたいオキナワ」だが、そもそも『けーし風』自体がその層に多く読まれているのか、よくわからないところではある。長く平和活動をやっている方によると、イベントなどへの参加者は、学校で参加報告をしなければならない高校生と、年齢がかなり上の層になってしまい、その間がいないという状況らしい。実際に労働者は忙しく、情報も伝わらない実情があるようだ。参加した高校生がその後継続して何かに興味を持っているかどうかはわからないながら、仮にそれが一過性のものであっても、若い人にとってはその「出会い」は大きいに違いない、という意見があった。

沖縄とヤマトゥとの、相互のまなざしのずれについては、特集でも触れられているところだ。ひとつにはメディアの問題が関連しているとおもうが、沖縄以外の全国紙・地方紙においては、沖縄に関する<事象>はあっても<言説>はない、ということが実態だとの現場からの声。自主規制、読者の要望など要因は複層的なのだろうか。

沖縄にかんしては、<当事者>以外の関与を拒否する声が強い(意図はそれぞれ異なるが、野村浩也、目取間俊、知念ウシ、といった方々のスタンスが想起される)。「5.18シンポジウム<来るべき自己決定権のために>」における佐藤優発言(>> リンク)とは別の意味で関連するとおもう。それらの声は、たとえば目取間俊の「ヤマトゥで喋っていることが実は全く伝わっていないことのむなしさ」のように、<当事者>の真実の声なのだろうと認めるほかないものかもしれない。

一方では、『インパクション』163号(インパクト出版会)座談会において提起されていたように(>> リンク)、抵抗の身振りにおいて、「地元」だからという言い方は、NIMBY(Not In My Back Yard)と見なされてしまう危うさがあり、住民運動を外に開かれた形で展開する意義がある(そもそも短期的に移動できる世界では「地元」という意味を問い直さなければならない)といった指摘(阿部小涼)にも納得させられる。

この集いでは、間口を狭めてしまっては縮小均衡に陥るのではないか、相互批判はあっても退場勧告はなしとすべきなのではないか、との意見が多かった。

その後、本誌記事・西脇尚人『キャンプ・キンザー沖埋立事業の真実』や、泡瀬干潟の写真展のこと(>> リンク)などをきっかけに、公共工事依存型の経済、さらには基地依存型経済に、話が移った。基地があることにより沖縄の経済が成立しているという<常識>あるいは<幻想>に関しては、では別の産業がその敷地にあったらどうなのかという視点があまりないこと、経済以外の害悪と込みにした議論がなされにくいこと、失業率の高さが政治的な道具として使われてしまうこと、などの論点があった。

公共工事についても、それと対する位置に置かれてしまう平和運動のことや(伊江島における阿波根昌鴻さんの立場は、かつて、極めて厳しいものだったようだ)、選挙との関連など、話が具体的になればなるほど根が深そうだという感が強くなる。