小川町のneoneo坐で行われた「森口カフェ vol.3」に足を運んだ。ジャーナリスト森口豁さんがかつて制作したテレビドキュメンタリーから、内間安男さんというひとのふるまいを観察した、定点観測的な3本が上映された。狭い会場には30人くらい集まっていて、neoneo坐にはじめて来たというひとも多いようだった。
『沖縄の十八歳』(1966年)は、高校3年生、18歳の内間さんの姿を捉える。日本復帰への布石となる佐藤首相の訪沖を経て、沖縄では復帰の是非を問う議論が高まっていた。高校生の間でも、それは無縁ではなかった。慰霊の日に訪沖する山口衆議院議長に対し、コザ高校有志として、復帰を訴える文書を渡すかどうかでクラスは意見が二分していて、内間さんは復帰に賛成する側だった。
その、「トートロジーにちかい」(仲里効)復帰への熱望に対し、級友は、「勝手に沖縄をこのようなところにしておいて今さら復帰だなんて、そんな国が俺たちの祖国と言えるんだろうか。そんな祖国なんていらないよ。」と反論する。これは何度もドキュの中で、内間さんの心に響くように繰り返される。
「復帰から三十一年、六五年から六六年かけて交わされた、若きアドレセンスの<日本人/祖国論争>など、まるでなかったかのような時勢に私たちは生きている。沖縄の十八歳の憧れや悩み、言語化される以前の不定形の闇を忘却から奪回するとき、沖縄の戦後の履歴をまざまざと見せつけられ、今という時の居心地の悪さに気付かされるはずだ。」(仲里効、「沖縄タイムス」2003年11月27日)
『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)は、復帰後6年を経て、戯曲『人類館』のエキセントリックな人物を演じる者として、内間さんがあらわれる。この、「いい意味での変節ぶり」には、森口さんも驚かされ、感動させられたという。18歳の内間さんとの出会いは、沖縄に渡ったときの森口さん自身の「青春の投影」だったのだから。
『人類館』は、1903年の博覧会において、アイヌや朝鮮人とともに琉球人も「陳列・展示」されたという事件をもとにしている。内間さんは、そのなかで差別する側にも、軍人として沖縄を犠牲にした側にも、為政者側にも立って、自ら多くの矛盾を笑いとともに顕現する。ドキュのなかで、内間さんが自分の18歳を振り返る台詞がある。「沖縄が復帰すれば、沖縄のためになるとおもった」という正にその「トートロジー」的なものは、おそらく誰のものでもあったのだろう。
ドキュでは、同時に、「730」というキャンペーンとともに大掛かりに処理された交通方式の転換が、たんなる事務的な処置ではなく、都合のいいように扱われる沖縄を象徴していることが示される。
『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)は、2児の父となった内間さんを描く。ここでは、米軍の沖縄での軍事演習に参加する自衛隊の姿が映し出される。インタビューに対し、自衛隊員は「反対運動をやっていることはわかるが、政治的なものはわからない。軍事的なものならわかる。義務を遂行するまでだ」と語る。これに被るように私が思い出すのは、イラク空輸活動を違憲とした名古屋高裁の判決に対し、「そんなの関係ねえ」「与えられた任務をこなすのが役割」とした公式発言だ。依然として変わらないシビリアンコントロールの欠如に対して、内間さんは、歩き、アピールし、子どもに平和について教え続ける。
内間さんは職を転々とした後、県庁に職を得ていたが、病に倒れ仕事を辞したという。その内間さんに青春を投影したという森口さんは、やはり18歳のときに沖縄に渡り、ほぼ同い年だった故・近田洋一さんと知り合った。「アカ」と米国に睨まれたら日本に渡航するパスポートも交付されず就職も難しくなる時期にあって、森口さんと故・近田さんは「兄弟以上のつきあい」をしてきたと振り返る。先月急逝した近田さんのことを語る森口さんは、しばしば言葉に詰まった。
ドキュ3本の上映と森口さんのお話が終ってから交流会。neoneo坐には食べきれないほどの食事が並べられた。いろいろなひとと話すことができて楽しかった。
●参考
罪は誰が負うのか― 森口豁『最後の学徒兵』
『子乞い』 鳩間島の凄絶な記録