森まゆみ『自主独立農民という仕事 佐藤忠吉と「木次乳業」をめぐる人々』(バジリコ、2007年)は、牛乳を中心にした本ではない。あくまで、佐藤忠吉氏という魅力的なひとの活動や考えを紹介している本だ。著者は、タウン誌『谷中・根津・千駄木』発行の中心的人物だったこともあり、「ひと」という単位での見せ方がとてもうまく、引き込まれて読んでしまった。
木次は出雲にある。ここで佐藤忠吉氏は、日本ではじめて、63℃30分殺菌のパスチャライズド牛乳を売り出したという。独特なのは、日本の農政の乳量主義やコスト主義、牛乳濃度主義、単一作物主義、農薬多使用主義などにすべて反したスタンスだ。長い模索の末、あくまで気候風土に合った乳業のため、ジャージーやホルスタインなどの半分未満しか乳を出さないブラウンスイスという牛を育てている。
穴がぼこぼこあいたエメンタールチーズの製造については、平澤正夫『日本の牛乳はなぜまずいのか』(草思社)にも中心人物として登場する乳業の技術者、藤江才介という技術者に指導を受けたようである。藤江氏も、パスチャライズド牛乳を推進していた。
木次乳業で抱いていた疑問は、「牛乳は日本人に必要ないのではないか」という思いだったという。そんななか、高温加熱の牛乳はたんぱく質の熱変性によりカルシウムの吸収が悪く、焦げたような匂いがすることを認識し、パスチャライズを開始する。ここでは乳糖の分解ではなく、可溶性カルシウムの消化吸収のよさをポイントとしているわけである。その思いもあり、何と、製品にも自動車にも「赤ちゃんには母乳を」と、牛乳メーカー自らが書き込んでいるのだ。
牛乳のほかにも、佐藤語録とでもいうべき言葉に含蓄があり、いちどお会いしてみたいとおもわせる魅力がある。
「人生、みんな愛しいです。いかなることがあっても愛しい。思い出しても難儀なときのことがいちばん愛しい。中途半端にいい目にあったことは忘れてしまう。ついでに中途半端につらいこともみんな忘れてしまう。難儀を乗りこえ乗りこえ来ることが、いちばん生き甲斐でしょうが。ちがいますか。うまくいくこともあるし、うまくいかんときもある。失敗のない人生は失敗でございます」
「もちろん並行して米をつくり、小麦、豆、芋をつくり、ナタネやゴマもつくり、養蚕もタバコ栽培も多少はやり、鶏も羊もブタも飼う。ほんとうに自給自足に毛のはえたものですが、ほとんどのものをつくっとった。でも我々には別の夢があった。牛を飼って乳をとり、それを加工して付加価値をつけ消費者に届けるという。素材の生産だけだったら我々は都市の奴隷にすぎない。」
「そもそもどんな農法でやるかは農民一人一人が考えて決めるもので、行政が有機農業をすすめるなんてのは私は大反対、納得して自らやるもので、お上が旗ふって上からやらせるべきものではない。それではそれを強いる者がおらなくなったら、それで自然消滅してしまう。あくまで農民は自主独立農民でありたいということです」
「弱肉強食、自由競争の資本主義が勝ったとは私は思っておりません。これは環境をくいつぶし、生存の基盤を掘りくずしている。それに変わる自立自治の生き方を『ゆるやかな共同』の中で考えていきたいと思っております」
この、「ゆるやかな共同」を模索するため、佐藤氏は、イスラエルのキブツを見にいき、米国のアーミッシュにも興味を持っているという。「ふところまで入りこまず、お互いをみとめあって助け合う」という、「個」と「社会」とのバランス感覚はとても興味深い。
●参考
○牛乳(1) 低温殺菌のノンホモ牛乳と環境
- 平澤正夫『日本の牛乳はなぜまずいのか』(草思社)
- 中洞正『幸せな牛からおいしい牛乳』(コモンズ)
○牛乳(2) 小寺とき『本物の牛乳は日本人に合う』
- 小寺とき『本物の牛乳は日本人に合う』(農文協)
○沖縄のパスチャライズド牛乳