短期間ではあっても、おもいがけず仕事でラオス・ヴィエンチャンに行くことになり、本棚を眺めると何冊もラオスの本があった。独身時代、次はラオスへの独り旅もいいかなと考えて勉強していたのだった。
もっともコンパクトにまとまっているのが、青山利勝『ラオス インドシナ緩衝国家の肖像』(中公新書、1995年)だろう。メコン川をタイとつなぐ「友好橋」の建設やその他の公共事業、ODA事業などに肩入れしていて、経済発展重視に偏っているきらいはあるものの、近現代史や社会主義の特徴を整理してあって読みやすい。特に、ヴェトナム戦争といえばヴェトナム、カンボジアを中心に考えてしまうが、米軍の空爆でラオス国民の11%(330万人のうち30万人超)が死亡し、これはヴェトナムの10%より高いこと、その北爆による爆弾の総量は300万トン以上であったこと(1人あたり1トン超)、などの指摘には驚かされてしまう。
開発といえば、実際に、日本のラオスに対する援助額は非常に大きく、国道1号線やワッタイ国際空港の新ビルがこの形で作られたというモニュメントがあった。一方、中国の援助も額は小さくても目立つもので、その対価として、ヴィエンチャンにチャイナタウンが近々できると現地のひとに聞いた。
綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいラオス』(弘文堂、1996年)は、さらに踏み込んで詳しく書かれている。面白いのは、1940年ころの地図と、現在の様子とを見比べても、ヴィエンチャン中心部はほとんど街区の構成が変わっていないように見えることだ。古い地図において荒地であった土地に街が広がったに過ぎなくて、中心部はあくまで古くからある部分なのだ。古い地図の右上に「タート・ルアン」と見えるのは16世紀に建設された黄金塔であり(今回観ることができなかった)、その間の三叉路近辺にある「パトゥーサイ」という凱旋門は、戦没者慰霊塔であるから、当然まだない。
1940年頃のヴィエンチャン中心部(綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいラオス』より)
現在のヴィエンチャン中心部(ホテルでもらった『Tourist & City Map of Vientiane Laos 2007/1』より)
中心部はとにかく狭く、ちょっと歩けばどこにもすぐに着いてしまう。アジアの首都とは思えないほどのんびり、ほのぼのしている。驚くべきことに、タクシーがほとんどいない(空港前にもいない)。その代わり、タイやヴェトナムと同様にトゥクトゥクはいっぱい居るのだが、客引きがまったく熱心でない。道を横断するのも楽勝だ(中国やインドでの横断は命懸けである)。仕事だからゲストハウスには泊まらないが、雰囲気のいいところがたくさんあり、ヨーロッパ人たちがくつろいでいた。独り旅でも家族旅行でも良いところかなあとおもってしまった。
写真集は、太田亨『仏の里・ラオス』(東方出版、1999年)や曹洞宗国際ボランティア会『ピーマイ・ラオ ラオスの心を訪ねて』(現代企画室、1996年)を持っている。前者はルアン・プラバンの様子が中心だが、ヴィエンチャンの寺もいくつか含まれており、繰り返し観ても良い写真集だ。やはりカラーリバーサルは眼が悦ぶのだった。
ところで、ヴィエンチャンの西洋人・日本人向けとおもわれるスーパーで、ラオス最南部のボラヴェン高原で栽培しているコーヒー豆を買って帰った。200グラムを3パックで10ドルそこそこだった。フェアトレードを謳っているが、さて、どれ位が農家の手に渡るのかはここのウェブサイト(>> リンク)を読んでも書かれていない。