ブックオフの200円券をもらったので、何かないかと105円コーナーを物色していたら、鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(講談社文庫、1995年)を見つけた。
ここには12本の短いルポが収められている。古びるどころか、沖縄「集団自決」の歴史が修正され、成田空港の農民を「ゴネ得」と発言する政治家が存在する社会にあって、重みを増しているようにおもえた。忘れてはならないことはたくさんあるのだ。
「沖縄海洋博の傷跡」では、投資の多くが本土に還流することが示される。しかし、おカネが落ちるという幻想や、一時的な補助金のために、ここでも忘れられないダメージを受けた人々がいる。そしてこれは、今でも日本のあちこちで見られる光景だ。妙に金遣いが粗くなったり酒癖が悪くなったりして、生活がおかしくなるとの話も聞く。沖縄海洋博の100円玉を珍しいからという理由で持っている自分をおもわず恥じてしまう。
「沖縄 集団自決の悪夢」では、現在も大江・岩波沖縄戦裁判において引用される曽野綾子『ある神話の背景』について徹底的に批判を加えている。そこには、軍隊の論理がまかり通る現在への抵抗がある。
「「愛」といいくるめ、美談にしてしまえば、もはや責任は追及されることはないと思ったのだろうか。それが「ある神話の背景」であろう。けっして繰り返してはならない惨劇を、いわば加害者としての日本軍が「愛」などとまことしやかにいえるものかどうか。」
ところで、テロとの戦いという隠れ蓑のもとで、新テロ特措法が成立しそうな状況である。戦争協力と民間人の被害をやむをえないものとする本質は何も変わっていない。ほんらい、メディアは繰り返しに対して麻痺するのではなく、これまでの蓄積を前提として報道に厚みを増していかなければならない。実際にはまったく逆であり、衆議院での再議決も「禁を破った」ものは新規性がないからそれほど騒がないのだろう。
これが「集団自決」と何の関係があるのかといえば、何やら大義や国際社会などの確信犯的な寝言で覆い隠し、見えないところでのひとりひとりの心や命を軽視する精神である。
「成田空港建設一二年の暗黒」では、如何に羽田拡張案、浦安案、富里案を退けて三里塚に決められたのか、背後の利権、国家自らによる法を無視したでたらめな進め方、などがまとめられている。「呪われた空港」である。このような大きな暴力に対して、心にかけらをとどめることもなく、「ごね得」と発言した政治家がいたことは記憶し続けておかなければならないだろう。
「法的手続きに重大な誤りがあっても、それが既成事実になれば容認され、決して軌道修正されることはない。それが成田空港建設のなかで進められてきた最大の問題である。」
最近の『東京新聞』(2008/9/30)でも、鎌田氏は次のように述べている。
「自宅の屋根を擦るように飛行機が飛ぶようになって、騒音直下の公害にさらされても、畑を耕し続けているのは、決して「カネ」目当てではない。長年、丹精をこめてつくってきた「土」(有機土壌)を、いとおしいと思っているからだ。
それを「ごね得」などと侮蔑するのは、人間の行動を、すべてカネで換算してしか考えられない悲しい性を露呈しているようで、こちらまで恥ずかしい思いにさせられる。」
三権分立が絵空事でしかないこと、国は法も人権も軽視し続けてきたことについて、著者は、「新潟水俣病裁判・その後」でも指摘している。
「「政府」と「国」と「国家」は、つねにあいまいにされ、水俣病の発生を隠し放置していた国と、治安維持のために現体制で許容されるギリギリの線で判決を下した国家とを、重ね合わせてとらえる思考に、日本人はまだまだ慣れていない。」
終わった問題などない、ということだ。
●参考 ええじゃないかドブロク