Sightsong

自縄自縛日記

中島岳志『インドの時代』

2009-11-27 00:29:19 | 南アジア

またインドに行くこともあろうかと妄想し、評判の良い、中島岳志『インドの時代 豊かさと苦悩の幕開け』(新潮文庫、原著2006年)を読む。薄い文庫本ではあるが、私の見ていないインドが書かれている。タイトルから、ただの時事ネタ本だと思ったら間違いだ。なお著者は、小林よしのりや西部邁らとパール判事に関する論争を行っているが、そのことは忘れる。

本書に書かれているのは、21世紀に入ってから急速に変貌している中間層以上の姿である。彼らは、隔離された近代的なマンションに住み、近代的なショッピングセンターを使い、余暇には地元に昔からあるのではない寺院に通う。仕事でインドを訪れた私のような人間の前にも、もちろんバックパッカーやツアー観光客の前にも現われない世界だろう。しかし、そんな世界の住人たちは、ストレスを溜め込み、メディアによって気付かされる消費願望を満たし、疎外感を抱き、それは宗教への偏った依存やナショナリズムへの偏向などとなって顕在化する。日本社会と共通する側面だ、というのが著者の観察である。

特に、イスラームや米国などの仮想敵を作り上げ、ヒンドゥー・ナショナリズムが影響力を持ってきたのだとする論旨には説得力がある。その背景には、従来の「インド的なるもの」が排除され、「アメリカ的なるもの」が、たとえば、新自由主義の影響や、衛生の徹底というポリシーを通じた権力工学によって普及してきたことが挙げられている。オカネや見えざるものによって、蜘蛛の巣のようにねとねとと張り巡らされる権力、それに抗する歪なナショナリズム。たとえば、あるプロパガンダ的な広告では、パキスタンもスリランカもまとめて「インド」として描かれてさえいるのであり、驚かされてしまう。

著者は、「インド」については多角的に捉えなければならないと説く。その勢いで、「悠久の大地」や「貧しいけれども心の豊かな人々」といったステレオタイプの見方が日本人のインド観を支配しているのだと苛立ちを隠そうとしない(沖縄でいえば、「癒しの島」という固定イメージか)。しかし、これはざっくり言えば大きなお世話であり、学者の傲慢だと言わざるを得ない。そう感じて表現する人にとっては、それが真実なのであり、偏ったロマンチックな観光客も、偏った「客観的」な観察を行う研究者も、「インド」への距離は変らないだろうね。

ところで、興味深く思ったこと。インドとスリランカとの間の海峡は、場所によっては海底が非常に浅く、「アダムス・ブリッジ」と呼ばれている(もちろん西洋起源の呼び方であって、スリランカの聖なる山スリー・パーダを「アダムス・ピーク」とも呼ぶことと同様)。ヒンドゥー・ナショナリストのある組織は、ここの航空写真をもって、『ラーマーヤナ』のなかで語られているように「ラーマがランカ島に渡った跡」だと主張しているという。「神話の史実化」である。これが真面目にでっち上げられるなら、アーサー・C・クラークが言ったように、スリランカ近海に落下した隕石がハヌマーンの落とした岩として伝説化し、それが重力異常となってあらわれているのだ、と、新たに主張しはじめてもおかしくはない。

●参照
スリランカの重力