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自縄自縛日記

戸邊秀明「「方言論争」再考」 琉球・沖縄研究所

2009-11-28 00:44:46 | 沖縄

早稲田大学琉球・沖縄研究所では、総合講座「沖縄学」として、毎週金曜日夜に講義が行われている。今回、戸邊秀明(東京経済大学)による「「方言論争」再考―沖縄にとっての文化・開発・主体性」に足を運んだ(2009/11/27)。

講義のユニークな点は、「方言論争」の研究がどのように変貌してきたのかに着目していることだ。それによって、<民芸>対<沖縄県庁>という対立を見る視線が孕むものをあぶりだそうとしている。

「方言論争」とは、1940年、柳宗悦を中心とする民芸運動の知識人と、沖縄県庁との論争のことをいう。上からの標準語励行(強制)に関して、柳宗悦は、残された純正の和語を日本文化のために残すべきだと批判した。一見そこから始まる論争である。以下に、講義の内容をピックアップしてみる。

講師は、明治政府による琉球処分以来の差別(制度的差別とその後の社会的差別)、経済的な窮乏から抜け出そうとする必死の思いを抜きにしては、この問題は全く語ることができないのだという。その表れが、「標準語」奨励(強制)方言撲滅の動きであった。

70年代頃までは、沖縄県による自己の固有な文化の破壊というファシズム批判だとして、柳の論調は高く評価されていた。しかし80年代後半より、柳とそのパトロンであった式場隆三郎の意図するものが、沖縄自身ではなく他ならぬ日本文化のため、そして「国民精神の高揚」のためであったことが顕わになってきた。すなわち、ファシズム批判どころか、逆に日本ファシズムに乗る形であった。そして90年代以降、なぜ沖縄人が自らの言葉を捨てざるを得なかったのか、という問いに対して、柳らは文化という視点でのみ応えたつもりになっていることが見えてきている。実は論争ではなく全くすれ違いであったというわけである。

この論争は、突然生じたものではなかった。30年代、<観光>というものの興隆時に、柳たちも沖縄の観光産業育成に一役買おうとしていた。そのときには、県も柳らも同じ側に立っていた。しかしながら、<観光>の出現は、オリエンタルな視線・植民地と同じレベルでの視線を半永久的に持続させようという力を生み出すものであって、沖縄の<自立>や<発展>とは、根本的に矛盾するものであった。そして、植民地と同一の位置に立ちたくないということは、沖縄が<被差別者>と<差別者>の2つの貌を持つことだとも言うことができた。

それでは、現在も歪な形で残るこの構造をどう見るのか、というのが講義の締めくくりの問題提起だった。資料に引用しているテキストは、高良倉吉によるものだ。

「〔沖縄の価値を表象する「様々なメニュー」の〕 それらの中のどれをとらえてアピールするか、そのことは発信者の自由に属する。無論その場合、発信する担い手がいわゆるウチナーンチュであるか否かを問う必要はない。地元沖縄において、若い世代を中心に「沖縄」が絶えず発見され、「発見」した「沖縄」をカルチャーとして引き受ける状況も存在している。〔中略〕 その状況を見て、他者が創作したところの「沖縄イメージ」に躍らされているのではないか、という見方を私はしない。どのような「沖縄」を受け取るか、それをどうパフォーマンスとして発揮するかは各自の自由であり、その是非を判定できる審査官などが居てはならないと思うからだ。」

おそらく講師の戸邊秀明は、このテキストに見られる非歴史性(現在だけを語ることの不可能性)、非対称性(スタンスも活動も決して互換ではない)という点に賛同できないのだろうな、と、帰りながら考えた。仮にそうだとして、私にはそこまでには思えない。基地や経済など差別構造が残ることを見ようとしない<観光者>が、全面的に潜在的な<差別者>としての責めを負うべきだとは言い切れないと思ったからだ。しかし、そうでないかも知れない。

●参照
水島朝穂「オキナワと憲法―その原点と現点」(琉球・沖縄研究所)
『シーサーの屋根の下で』(柳宗悦の日本民藝館が登場)