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自縄自縛日記

萩原朔太郎『猫町』、清岡卓行『萩原朔太郎『猫町』私論』

2010-01-02 23:35:51 | 思想・文学

年末年始には(たまたま、だが)、萩原朔太郎『猫町』(岩波文庫、原著1935年)と、それについての評論、清岡卓行『萩原朔太郎『猫町』私論』(文藝春秋、1974年)を読んでいた。後者は、札幌の古書店、書肆吉成で入手した。なお、現在では、筑摩叢書として復刊された版の方が入手しやすいようである。

世田谷文学館には、ムットーニによるからくり箱が収蔵されている(>> リンク)。何年か前に観て愉しい驚愕を覚えてから、いつか原作を読もうと思っていた。この現実から離れそうで離れることができない微妙な感覚が、だらしない正月休みにフィットするというものだ。

「私」は、ひなびた温泉街近くの駅で気紛れに下車する。道に迷い、気がつけば繁華街。ところが危ういバランス、張りつめた切実さ、凶兆といったアウラが濃厚となってゆき、突然の沈黙。町の街路にも、家々の窓口にも、猫の大集団がうようよしている。

このあたりの描写は凄まじく、H・P・ラヴクラフトさえも想起させる。(なお、ラヴクラフトは本当に怖いため、私は読みたいのにあまり読んでいない。) 深沢七郎島尾敏雄の作品にも発狂してしまいそうな切迫感があったように思うが、いずれにしてもムットーニから想像するような人形劇独特の怖さなどを凌駕しており、とてもファンタジックとは言うことができない。

「町の特殊な美しさも、静かな夢のような閑寂さも、かえってひっそりと気味が悪く、何かの恐ろしい秘密の中で、暗号を交わしているように感じられた。何事かわからない、或る漠然とした一つの予感が、青ざめた恐怖の色で、忙しく私の心の中を馳け廻った。すべての感覚が解放され、物の微細な色、匂い、音、味、意味までが、すっかり確実に知覚された。あたりの空気には、死屍のような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩まって行った。此所に現象しているものは、確かに何かの凶兆である。確かに今、何事かの非常が起る!起るにちがいない!」

清岡卓郎の評論においては、この作品を産み出した萩原朔太郎という人物について探っている。読みすすめるにつれ、資質的に社会生活から疎外されざるを得なかった詩人に、なぜか感情移入している自分を発見する。

朔太郎は、いわば田舎の金持のボンボンであり、金銭感覚に乏しかった。田舎では変人と蔑まれ、近代に、都会に、憧れた。結婚生活は、都会での放縦な暮らしの中で、悲惨な末路を辿った。夢見ていた欧州への旅を強行するほどの行動力はなく、朔太郎は、脳内での妄想・歪んだ内的世界への旅を肥大化させていった。(阿片やハッシッシが入手できないため)モルヒネやコカインさえも使っていた。

いまふうに言えばコンプレックスとして片付けられるのかもしれないし、このような芸術家はそもそも生きる場所を探すのにもっと困難に直面するかもしれない。実際に、田舎を激烈に憎み(このあたりは共感できなくもない)、かつ、その田舎の父からの仕送りで都会生活を送るという、どうしようもない男である。しかし、そうした朔太郎の屈折した個性が、『猫町』の世界に結実したのであった。 

 「かなしき郷土よ。人々は私に情なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。単に私が無職であり、もしくは変人であるという理由をもって、あはれな詩人を嘲辱し、私の背後から唾をかけた。「あすこに白痴が歩いて行く。」 さう言って人々が舌を出した。」

清岡卓郎は、『猫町』に見られる切迫感が、朔太郎の内在的な「精神的な飢え」だけでなく、30年代という時代の圧迫も影響して産まれたものだとしている。中国への軍事侵略が本格化し、国内的にも2・26事件が起るなど騒然とした中で色濃くなる全体主義は、放縦な個性と相容れなかったのは明らかである。すなわち、突如として「私」が取り囲まれる「猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。」は、匿名・無個性の人間の集団でもあった、ということだ。

もっとも、社会や政治には全く無知無頓着であったというから、外的な要因があったにせよ、それらが精神と言葉の歪みとなってのみ顕れたという意味では、社会派などでは決してなく、やはり前衛と言っていいのか。 


『世界』の「韓国併合100年」特集

2010-01-02 00:54:02 | 韓国・朝鮮

『世界』2010年1月号(岩波書店)で、「韓国併合100年 現代への問い」と題した特集を組んでいる。言うまでもなく、今年は1910年の韓国併合から100年目にあたる。

重要な年ではあるが、ある週刊誌で韓国でのイベントを揶揄する記事が掲載されるなど、意識レベルは極めて低い。北朝鮮への感情的なバッシングや竹島問題ばかりに偏り、かつて北朝鮮を含む朝鮮を植民地として軍事支配したこと、南北分断の直接的な原因となった朝鮮戦争に基地貸しという加担を行った挙句に特需だけ享受したことなどに対する視線と比べると、アンバランスという他はないのではないか。

あまりにも非対称な意識のあり方、政治のあり方に関して、姜尚中は、和田春樹・藤原帰一との対談において、次のように発言している。

このような歴史をくぐり抜けてきた韓国・朝鮮人と、沖縄など一部を除いて、「平和憲法」と日米安保のもとで、「冷戦」というある種の「城内平和」の戦後史を歩んできた日本国民との間に、60年にわたり「隣人(となりびと)」としての同時代的な共通の体験が分かち持たれてきたか、甚だ疑問です。そのギャップが、植民地支配という過去の歴史をどうみるのかについて、双方に著しいすれ違いを生み出しているのではないでしょうか。

朝鮮で、沖縄で、中国で発生する裂け目を隠蔽し、すり替えているのは、日本という総体ということである(私が総体と言いたいのは、国家は単一の人格ではなく、政治、記憶、個人などさまざまなフェーズでの意識を孕むものであるから)。それにしても、「城内平和」という言葉にはハッとさせられる。

過去の<責任>にどう向き合うかについて、以前より、哲学者の高橋哲哉は、<応答>することを軸にその考えを提示している。ここでも、日本の保守政権は、被害者からの責任を問う声に応答することに失敗してしまったのだと評価している。そんな潮流の中での2010年は、あらためて重要だと発言している。興味深いのは、東アジア共同体構想についての指摘だ。この点では随分と理想主義的のようにも感じられるが(ただの経済共同体だという現実的な評価はない)、さて、新政権にどれほど期待できるだろうか。

東アジア共同体構想を自民党政権の首相が言い出せば、大東亜共栄権の再来かという反応を即座に呼び起こしたことでしょう。韓国も中国も前向きに受け止めているとするなら、新政権が「歴史を直視する」可能性に期待を持っているからではないか。
 戦後補償問題と東アジア共同体構想は隣り合う問題として考えるべきです。EU統合を可能にしたのは、さまざまな要素はあるにしても、その核心はやはり独仏の和解です。鳩山首相がそれを「原形」にするという以上、日本は少なくとも「過去の克服」に関してドイツと同じような姿勢を見せなければならないことになります。

さらには、尹健次は、日本が原因をつくった朝鮮分断のままでの日韓・日朝和解は現実的にあり得ないとしている。そして池明観(かつてのT・K生)は、金大中の太陽政策を高く評価している。北・南・日本という視線は同じものである。

●参照
高橋哲哉『戦後責任論』
尹健次『思想体験の交錯』
尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)