Sightsong

自縄自縛日記

佐藤さとる『だれも知らない小さな国』

2010-01-31 21:58:03 | 思想・文学

荷宮和子『バリバリのハト派』という本を読んでいたら、日本における独自のファンタジー変遷論を展開していて(アニメ『聖戦士ダンバイン』まで引用する愉快さ)、そのなかで佐藤さとるの「コロボックル物語」シリーズを高く評価していて、懐かしい思いにとらわれてしまった。小学生のときに図書室で借りては読んでいたのだ。そうすると、偶然にも、息子が、第1作『だれも知らない小さな国』(講談社、原著1959年)を借りてきていた。嬉しくなって、返す前に自分も読んだ。

子どもたちがモチノキの樹皮を剥いでトリモチを作るというくだりしか覚えていなかったが、やはりとても面白い。そうか、これは戦争中の話だったんだなというのは新鮮な発見。原著は1959年で、最初は100部余りの私家版だったという。この魅力的な挿絵は村上勉という画家によるもので、1969年の改版時に登場している。こういったものを読むと、自分はオトナになるまで何をしてきたんだろう、と、ちょっと感傷的になったりして。

ここに登場する小人=「こぼしさま」たちは、アイヌ伝説のコロボックルをルーツとしている(それで呼び方も似ている)。身長は3センチ程度。人間に対してはあえてゆっくり喋るが、ふだんは聞き取れないくらい早口で「ルルルル。」という声を発する。

これで思い出したのは、動物のサイズが小さいほど時間の進み方が早いという話で仰天させてくれた、本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書、1992年)である。佐藤さとるがこの理論を知っていたわけではないだろうが、「こぼしさま」が早口なのは生物学的にも正しいわけだ。

これによると、哺乳類にとっての時間は身長の3/4乗に比例する(マクマホンの説明)。身長3センチということは、人間の1/50程度。すると「こぼしさま」の寿命は2年程度ということになってしまう。一方、この物語では、主人公の男の子が大人になるまで、同じ「こぼしさま」が見ているということになっている。

従って、コロボックルは一般則よりも長生きだという結論。


『けーし風』読者の集い(9) 新政権下で<抵抗>を考える

2010-01-31 20:01:36 | 沖縄

『けーし風』第65号(2009.12、新沖縄フォーラム刊行会議)の特集は「新政権下で<抵抗>を考える」と題されている。

ここに収められた原稿が書かれてから現在までの間に、名護市長選で辺野古基地反対を掲げる稲嶺市長が誕生し、かたや、腹立たしいことに、高江住民の「通行妨害」に関して防衛省が本訴訟を行った。新政権だから必ずしも方針転換ということにはならない。

これまでの負の遺産に抗して日米軍事同盟の軌道修正を行うこと(ましてや根本的に見直すこと)自体が難事業であることは明らかなのであって、突然短期間で解決することを至上命題であるかのように前提視し、政権のブレのみを採りあげて云々することはあまりにも浅薄である。安次富浩「なぜ急ぐ鳩山政権?」では、まず危険な普天間を撤去し、県外移設を「鈍行で協議」すればよいと主張している。また、新崎盛暉「戦後の日米関係の本質と普天間問題」では、「鳩山ののらりくらりに、ある種の期待を持っている」と呟いている。この真っ当さにおいて、近視眼メディアとの落差は何ならむ。

「「最後は私が決める」と言いながら、決断を先延ばしにしているかに見える鳩山に対して、早期に決着しなければ、日米同盟が危うくなる、と批判する声が、マスメディアに溢れている。だが、実はわたしは、鳩山ののらりくらりに、ある種の期待を持っているのだ。彼は、集中砲火を浴びながらも、自らの理念を手放すまいとしているのではないかと。戦後の日米関係はあまりにも対米従属的だとの認識をもち、もう少し対等性を回復して、東アジア諸国とのバランスもとろうとしているのではないかと。」

最近の『世界』(岩波書店)と同様、我部政明「普天間基地に対するアメリカ政府の動きをどう見るか」においては、沖縄に戦略上海兵隊が必要なのだとする大前提に疑義を示している。このあたりは、他の指摘も含め、その<大前提>の矛盾を整理したいところだ。

メディアでは、沖縄での<基地経済への依存>を示すようなコメントのみを切り出しているが、これはグアムにおいて<基地拡大による経済効果>を期待するコメントばかり見られることと共通している。これに対し、上原こずえ「軍事化の進むグアムを旅して」によれば、まったくそれは実態と乖離していることがわかる。ここで感じられるのは米国内での南北問題であって、マージナルな地に汚れを塗りたくる点はきっと沖縄と共通している。

「島では現在、開発業者による大規模な不動産関連の会議が活発に開催されている。植民地化・軍事化の歴史が繰り返されてきたグアムでは、基地の拡大イコール「経済開発」というイデオロギーを軍隊が喧伝してきた。しかし、基地はグアムの自立を支えてはいない。むしろ、米軍基地が島の土地や水などの自然環境を支配し、自立の可能性も奪ってきたのだ。」

山口県岩国市の井原・元市長のインタビューは興味深い。特に選挙において如何なる不正が行われているか。事前投票で集票田の企業がバスで投票に行き、他の候補には入れにくくするという方法については聞いたことがあったものの、さらに「会社に言われて相手方に投票し、投票所前で写真をとってお金をもらう」方法があったことが暴露されている。

今回の「読者の集い」は6人参加。終わった後に神保町の「さぼうる」でさらに話していたところ、もっと驚く方法を教えてもらう。何と、「2人1組で投票し、投函する前にお互いに見せ合う」のだそうだ。当然監視員は見ないフリ。日本中どこでも田舎は相互監視社会であるから(本当)、これは決定的である。

他に話題となったことは、次号『けーし風』を読んでいただくとして、例えば次のようなこと。

○ジョゼフ・ナイの論文において、沖縄の軍事問題は日米関係のひとつに過ぎないと書かれていること。
○アライアンスは曖昧な<同盟>ではなく<軍事同盟>と訳すべきではないかということ。当然のように<同盟>と使われ始めたのは小泉政権以降ではないかということ。
○基地跡地の利用に関連して、沖縄の付加価値を経済収入に結び付けられる方法があるのではないかということ。
○ツイッターはネット世論の形成に力を持つはずだということ。

●参照
『けーし風』読者の集い(8) 辺野古・環境アセスはいま
『けーし風』2009.3 オバマ政権と沖縄
『けーし風』読者の集い(7) 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い
『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
『けーし風』読者の集い(6) 沖縄の18歳、<当事者>のまなざし、依存型経済
『けーし風』2008.6 沖縄の18歳に伝えたいオキナワ
『けーし風』読者の集い(5) 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』読者の集い(4) ここからすすめる民主主義
『けーし風』2007.12 ここからすすめる民主主義、佐喜真美術館
『けーし風』読者の集い(3) 沖縄戦特集
『けーし風』2007.9 沖縄戦教育特集
『けーし風』読者の集い(2) 沖縄がつながる
『けーし風』2007.6 特集・沖縄がつながる
『けーし風』読者の集い(1) 検証・SACO 10年の沖縄
『けーし風』2007.3 特集・検証・SACO 10年の沖縄


キャロリン・コースマイヤー『美学 ジェンダーの視点から』

2010-01-31 09:35:31 | 思想・文学

インターネット新聞JanJanに、キャロリン・コースマイヤー『美学 ジェンダーの視点から』(三元社、2009年)の書評を寄稿した。

>> 『美学 ジェンダーの視点から』

 芸術は政治である。そのような事実を、時には指の腹でなぞるように、時にはカーテンを乱暴に開けるように読者に示してくれる本だ。

 芸術界のヒエラルキーという意味でも、芸術の政治利用という意味でもない。芸術自体が、権力を体現したものなのだ。本書でその権力を解く鍵となるのはジェンダーである。

 生物学的な男女の違いではなく、文化的・社会的な性差。しかし、それは結果的に生じたものに過ぎない。性差が芸術において如何なる考えから生まれ、共同幻想として共有されてきたか。幾多の例を引用してそのテーマに迫る記述は静かでスリリングである。

 例えば、ここに裸の女性の絵がある。明らかに、男性たちの本能を隠そうとしない視線に晒されている。この非対称な現象が、きっと、歴史の結果としての性差であろう。では、なぜ私たち鑑賞者は、そのインモラルな姿を、実社会とは関係ないものとして平然と観ていられるのか。そこには、芸術権力ができあがるプロセスが起因しているという。

 芸術を鑑賞するとき、描かれた中身ではなく、ただ美学的側面だけに視線を注ぐこと。問いかけを禁じること。形式を評価すること。そのような、現在でも残る広い美学観こそが、ジェンダーという鏡には歪な姿となって映る。

 著者は次のように指摘する。「世界との関わりから芸術を切り離そうとする美的イデオロギーは、権力関係を刻印し教化するという芸術の力を覆い隠しているのだ。」と。さて、一歩引いてそのパラダイムを眺めた後、オフィスビルのロビーや、公園の片隅に設置されている裸婦像を、どのように観ることができるだろうか。これまで疑問にも感じなかった、あるいは無意識の蓋で抑えていた別の姿が、これまでと同じ世界に登場することが、本書による異化作用の醍醐味だ。

 芸術にはさまざまなジャンルがあり、男性の優位性には濃淡がある。例えば、視覚は対象から「美学的」に距離を置いた高級な、後天的なもの。味覚は生まれながらにして誰もが保有している、「美学的」に高級でない、先天的なもの。女性が参加を許される分野は後者であった。なぜなら、前者に必要とされる、対象を「美学的」に抽象化する能力が、男性にしか備わっていないと考えられていたからである。著者の慧眼であり、このことも、現在の社会に直結していることは言うまでもないことだ。

 もちろん現在の眼からは、もはや雲散霧消したかのような偏見があるかもしれない。しかし、私たちが共有する常識には、「美学」パラダイムの残滓が散りばめられている。それはもう残滓ではなく、鉄骨になっていたりもする。本書には、歪められてきた芸術は、批判に加え、芸術そのものによって捉えなおしてゆくのだ、という意志が込められているようだ。

●JanJan書評(2009年)

沖縄
『国策のまちおこし 嘉手納からの報告』に見る「アメとムチ」
コント「お笑い米軍基地」芸人の『お笑い沖縄ガイド』を読む
『沖縄戦「集団自決」を生きる』
絵本
『おててたっち』の読み聞かせ
『ながいなが~い』と『いつもいっしょ』読み聞かせ
『みんな、絵本から』(柳田邦男)
環境
『地域環境の再生と円卓会議』(三番瀬)
『サステイナブル・スイス』
社会
『子どもが道草できるまちづくり』を如何に実践するか(クルマ社会)
『地域福祉の国際比較』
『ガザの八百屋は今日もからっぽ 封鎖と戦火の日々』
『農地収奪を阻む』(三里塚)
『嫌戦』(坂口安吾)
『オバマの危険 新政権の隠された本性』
『世界史の中の憲法』
アート
『ライアン・ラーキン やせっぽちのバラード』
『チャイナ・ガールの1世紀』
『幻視絵画の詩学』(ストイキツァ)