井出孫六・小中陽太郎・高史明・田原総一郎『変貌する風土 ―開発と地域社会―』(三一書房、1978年)は、かつて千葉・内房の木更津がどのように重厚長大の企業の侵出にさらされ、海を失っていったかを探った、貴重なルポである。今みても豪華なメンバーの彼らが木更津に足繁く通っては、漁師、住民、企業の労働者などに話を聴き、それぞれの語り口で報告している。(これがブックオフで105円とは勿体ないことだ。)
木更津に関する報道といえば、東京湾アクアラインの値下げによっても青写真にあったような観光客誘致にはつながっていない、という程度だ。しかし、昔は、ずいぶん様相が異なっていた。
●ヤマトタケルが海を渡って去ろうとしなかった「君去らず」、もっとも古い地名のひとつ。
●江戸時代には、日本橋との間を通う「木更津船」により、内房随一の商業港として栄えた。
●明治になりその特権は剥奪された。そして県庁所在地にもなれなかった。
●往時の繁栄を取り戻すため、軍を誘致して軍都にする意図があったが、敗戦とともに潰えた。(ただし、いまだ陸上自衛隊の駐屯地がある。)
●埋立前は、漁業や海苔の養殖が盛んだった。
●埋め立てられてから、漁業を失い、新日鉄中心のマチと化した。
おそらく日本の津々浦々で見られたプロセスと同様に、巨大資本がマチを破壊し、いびつなコミュニティをつくり出していくさまが描き出されている。当時と現在とでは環境に対する意識水準がまったく異なるのは当然だが、それを置いておいても、このいびつさは変わっていないどころか、なお小さなもの、拠り所をねじり続けている。駅前に全国チェーンのスーパーが進出し、商店街がなすすべなく衰退することも、冗談のように同じである。
いま、小櫃川河口には盤洲干潟が、富津岬にも富津干潟が、残されているのは奇跡的なことのように感じられる。ただ海苔の養殖については、この埋立により失ってしまっている。かつての漁業権の地図を見ると、あらためて隔世の感がある。
(「区画漁業権」とある場所で海苔の養殖が行われていた)
それでも、現在でも富津岬以南で海苔の養殖が盛んな理由として、まさにこの時期に、富津の漁協が補償金を海苔養殖の設備投資と技術開発に使ったことがあるようだ。
それにしても、漁業権というのはよくわからない概念だ。浦安もかつて漁業権を全面放棄し、その代わりに莫大な補償金を得たことは、このあたりを散歩すれば、特定の名字に偏った豪邸が数多く見られることで実感できる。そして、大三角を埋め立てて建造された東京ディズニーランドからのアガリにより、市の財政には余裕があり、市立郷土博物館というハコの中で海苔養殖の歴史を振り返ってみるという皮肉。
しかし、なぜ漁協という主体なのか。本書によると、漁業権の名義人は戸主であり、漁業組合は権利所有者の集まりである。父親から漁業権を譲り受けていない若者には、発言の場が与えられなかったという。また、漁協という組織に属していなくても海とともに生活してきた人々には、補償金が与えられなかった。すなわち、漁民などという言葉で括ってしまっては、こぼれ落ちる存在が見えなくなる。そして暴力というものは、こぼれ落ちるプロセスにこそ如実に顕れている。(沖縄の辺野古にも、漁協を巡るねじれがある。)
●参照
○盤洲干潟 (千葉県木更津市)
○盤洲干潟の写真集 平野耕作『キサラヅ―共生限界:1998-2002』