出先の福岡で手持ちの本を読み終わってしまい、帰る前に天神のジュンク堂で、ポール・オースター『オラクル・ナイト』(新潮社、原著2003年)を買った。柴田元幸訳、出たばかりだ。羽田への飛行機内ではラーメンと疲れのために泥のように眠ってしまい、大阪上空あたりで目覚めてから読み始めた。いくつものストーリーが絡み合い、頭を整理しながら行きつ戻りつする。
大怪我から生還しリハビリ中の作家シドニー。年上の友人作家トラウズから、ダシール・ハメットが書いた不思議なプロットを聞く。それは、建築現場から自分の数センチ先に梁が落下する話だった。男はこの偶然を天啓とし、家庭に帰らず、別の町で別の人生を一からはじめる。そしてシドニーは、文房具店で買ったポルトガル製の青いノートに、それを発展させた話を書き始める。やはり深夜に散歩中の男ニックは、数センチ脇にビルの置物が落下し、妻を置いて飛行機に乗る。鞄には、知らない人から託された物語『オラクル・ナイト』があった。辿りついた先で、ニックは、戦時中のユダヤ人たちの電話帳など、死者のアーカイヴを整理する仕事を開始する。
物語中の物語、その中の物語。シドニーが物語をノートに書いている途中、彼は部屋から消えている。妻グレースは、ニックの彷徨と同じ夢を見る。なぜかトラウズも全く同じノートを使っている。それだけではなく、他の物語が接近しては消えていく。秘密と謎が交錯する。言葉はオラクル(神託)のように、未来を予見する、あるいは、捻じ曲げる。
複数の無関係に思われる物語がやがて収斂する、マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』のような構成とは全く異なり、ここでは、物語は語られ、共鳴し、断絶し、破かれる。読者はその連続と不連続との間に放置される。珍しく、シドニーという語り手自らによる長い注釈も、ひとつの物語の複層構造を支えている、あるいは、梯子を外す。
この作品が、オースター本人が言ったような「室内楽」だとすれば、それぞれの楽器はすべて別の世界から現れ、語りという場での音楽を奏で、またそれぞれ自分の世界に戻っていくかのようだ。そして、やはりオースターの他の作品と同様に、世界は理不尽な裂け目を常に用意している。そこからこちら側の世界に引き戻し、踏みとどまらせるのは「愛」?
まだ30分前に読み終えたばかりで、室内楽の和音と不協和音の余韻が残っている。
●参照
○ポール・オースター『ティンブクトゥ』
○ポール・オースター『Invisible』
○ポール・オースター『Travels in the Scriptorium』
○ポール・オースターの『ガラスの街』新訳