Sightsong

自縄自縛日記

ガバン・マコーマック+乗松聡子『沖縄の<怒>』

2013-05-20 21:14:59 | 沖縄

ガバン・マコーマック+乗松聡子『沖縄の<怒> 日米への抵抗』(法律文化社、2013年)を読む。

本書には、「捨て石」としての沖縄戦、切り捨てられた戦後処理、「復帰」後現在にいたるまで強化され続ける基地機能と、沖縄が、「理不尽」という言葉などでは表現しきれないほどの抑圧的・差別的な場所に置かれ続けたことが、具体的に示されている。日米両国家による権力行使の歴史が、如何に剥き出しで凄絶なものであったか。

その受苦の水準は、当事者ではないわたしのような読者が想像しうるキャパシティを遥かに超える。ところが、「本土」の多くの者は、想像力を1ミリも動かすことなく、目を背け続けている。あるいは、目を背けていることすら気づいていない。あるいは、目を背けていることを知りつつ、居直っている。わが身は傷まず、誹りを受けることもないからだ。仮に沖縄に旅行をしようと、物産店で沖縄の食材を買おうと、己の欺瞞をうつしだす鏡は、どこかに隠されている。すなわち、沖縄差別は巧妙に構造化されている。

鳩山の乱」という章がある。いうまでもなく、政権交代を成し遂げた直後の鳩山首相が、辺野古に計画されている米軍海兵隊の新基地を、「本土」に移そうという動きを見せたことを指す。既定路線からの逸脱は、米国への反逆であると同時に、日本の国家基盤を揺るがすものとして受け止められ、鳩山政権は、保守勢力とメディアを総動員した力によって潰されてしまった。そして、己の醜い差別者たる姿を見せられた「本土」は、それを直視することなく、鳩山首相と民主党を実務能力ゼロだとする別の欺瞞によって塗りつぶしてしまった。

このことは、当然ながら、今にはじまった事態ではない。本書をたどっていくことでよくわかることは、戦後日本が、一方的に米国の権力下に置かれていたのではなく、まさに「日米が共謀しての属国関係」であったということだ。日本が、戦後、独立国家・主権国家であったことなど一瞬たりともない、といっても過言ではないとさえ、思えてくる。おそらくは、「米国に押し付けられた」とする憲法を「改正」しようという動きも、「米国の望む姿になろうとする」ベクトルとして捉えるほうが妥当なのだろう。

本書の特徴は、学術的な文献資料よりも、むしろ、沖縄における報道、抵抗運動のブログ、生の声など、より一次的な実態をすくいあげていることだろう。 それは、著者が序文で強調しているように、「歴史を作る人」を最重視しているからである。ここでの「歴史」とは、勿論、国家の正史としての「歴史」ではない。

ノーム・チョムスキー氏による日米両政府への批判(2013/4/22、琉球新報)は、本書の英語版に触発されてのことだという。氏は、米軍基地に案して、「沖縄のことは沖縄が決めるべきだ」と発言している。

希望もなくはない。米国のジャパンハンドラーたちも、議会も、このような歪んだ基地のあり方に疑問の声をあげはじめている。しかしそれは、第一義には米国の海外軍事戦略上非効率だということなのであって、非民主主義的だからではない。 

●本書で参照された本など
新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』
浦島悦子『名護の選択』
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
金城重明『「集団自決」を心に刻んで』
謝花直美『証言 沖縄「集団自決」』
『世界』の「普天間移設問題の真実」特集
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』
知念ウシ『ウシがゆく』
ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』
辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出
宮城康博『沖縄ラプソディ』
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
由井晶子『沖縄 アリは象に挑む』
2010年12月のシンポジウム「沖縄は、どこへ向かうのか」