2005年にNHKで放送されたドキュメンタリー、『白い大道~伝説の唄者・里国隆を探して』を再見した。
奄美出身の流浪の唄者・里国隆の足跡を追った、2時間半の作品である。ちょうど、宮里千里さんが開いたばかりの古書店「宮里小書店」を訪ねたばかりで、想い出したのだ。宮里さんは、1983年に、晩年の里が那覇の平和通りに座りこんで唄っている様子を、オープンリールテープで録音している。
里の演奏と唄は、おそらく誰にも似ていない。確かに、コードは沖縄民謡のそれではなく、悲壮感が漂う奄美民謡のものに近いように感じる。激しく弦にアタックすることがあることも、そうだ。しかし、自作の13弦の竪琴や割れるような声は、異質の、たいへんな迫力を持っている。番組に登場する知名定男は、「決して美声ではない」としながら「驚愕した」と想い出し、奄美の唄者・築地俊造は、奄美独特の裏声を使わずに琴を駆使した技術に魅せられたと振り返っている。
1918年、奄美大島生まれ。幼少時の熱病で視力を失う。1936年、樟脳売りの老人に付き従って奄美を出る。唄や琴は彼に学びつつ、サバニに乗って、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島、そして嵐で流されて、1940年、沖縄本島・国頭村の楚洲に漂着。同村の安波では、里の唄が流行して誰もが唄っていたとか。
以来、琉球弧を流浪し、樟脳を並べて唄う人生であった。敗戦直前には、特攻隊が米軍攻撃に備え、住民が日本軍によって「集団自決」を迫られている喜界島に居た。戦後は、平安座島、石川、屋慶名、金武、那覇、コザなど、本島を流浪することが多かったという。キャンプ・シュワブが建設されはじめた1957年からしばらくは、辺野古でも演奏している。
女好きでもあったらしい。同郷の人の証言によると、風俗店では「one time」と「all night」とがあり、里は「one time」の料金だけしか払っていないにも関わらず、そのまま居座ろうとしたこともあった。そして、1985年に請われて沖縄ジャンジャンで演奏した際には、相方を務めた松山美枝子に対し、調子が悪いから同じ部屋に泊まってくれと頼んだという話もある。ただそれは、本当に身体の不調を懸念してのことであったのかもしれない。数日後、友人が経営する老人ホームに寝泊まりしていた里は、体調を悪化させ急死する。享年66歳。
里をめぐる様々な人物が登場する力作である。できれば再放送してほしい(VHSで録画したものしかないのだ)。
わたしの棚にある里国隆のCDは、『あがれゆぬはる加那』と『黒声』の2枚。またじっくり聴いてみようと思っている。