Sightsong

自縄自縛日記

スラヴォイ・ジジェク『2011 危うく夢見た一年』

2013-08-13 09:03:58 | 政治

スラヴォイ・ジジェク『2011 危うく夢見た一年』(航思社、原著2012年)を読む。

「ウォール街を占拠せよ」、アラブの春、大衆蜂起。2011年にはさまざまなことがあった。

ジジェクは、それらを「ネタ」として、得意の映画を引用しつつ、饒舌な弁論を展開する。話はあっちに行ったと思えばこっちに行く。ああ言えばこう言う。それでいて、コアは大したことがなくて、おいおい、結局それが言いたかったのかいと脱力してしまうような、妙にピュアなものだったりする。オッサン、オッサン、そんなに無駄な言説を弄んで楽しいのか。

もちろん、なるほどと思わされる話もなくはない。

たとえば。

ポピュリズムや新自由主義といった脅威に抗して、国家や社会のヴィジョンを主張する方法では、失敗が見えている。それは観念論だからだ。資本主義は個別の動きなのであって、全体を包含するものではなく、ヴィジョンなどではない(意味から全体性を奪い取った社会)。

原因は、「うまくいかない」ものにしかない。

経済にも全体性はない。政治とは、経済のそれ自身からの隔たりを指す名称である。

現代の社会においては、既に社会主義が成立している。そこに含まれる階級は、ひと握りの富裕層や政治家たちである。

ヴィジョンの闘争と階級闘争とは根本的に異なる。

国家は、国民だけでなく、国家それ自身をも代表する。それがあからさまに認められてしまえば、誰が国家権力を抑制するのか。

現代においては、「最良の者たちがことごとく信念を見失い、最悪の者たちが並々ならぬ情念に満ち溢れている」。

ヴィジョン間の闘争ではなく、複数の相異なるヴィジョンの共存・混淆を前提とした闘争を行うべきだ。「他者に安易に敬意を払ってはならない。他者に共同闘争を提起せねばならない。なぜなら、今日、われわれにとってもっとも緊急な課題はわれわれが共通して直面している課題だからである。」

といったところだ。ひとつひとつは、まあ、わからなくもないが、アフォリズム集と何が違うのか。どちらかといえば阿呆リズム集だ。

ジジェクは、「不満があっても馴染み深いことを続ける」のではなく、エジプトでの蜂起のように、特異点を見出そうと続けるべきであると主張する。具体的には、システムとしての民主主義を内部から解体し、新たな形を発案すること。そして、未来は、客観的な見通しとしてはありえず、その特異点にどっぷりとつかった者にしか見えないのだ、と。ジジェク得意の「信じることを信じよ」である。何、それ?

ジジェクはこうも言う。イラン革命(1979年)において、テヘランの交差点で、警察官が一人のデモ参加者に止まれと叫んだが、彼は拒否した。警察官は退散した。数時間のうち、テヘラン全体がこの出来事を知ることになった。その後、誰もが何となくゲームが終わったことを知ることになった。イランでの不正選挙(2009年)により、ムサビがアフマディネジャドに敗北した後でも、このようなことが起きた。

「信じることを信じよ」は置いておいても、モード・チェンジはあってもよさそうなものだ。「あってもよさそうなものだ」という第三者的な関与からは、それは起こらないこともわかる。いまの政治システムや社会システムが矛盾だらけであることは誰の目にも明らかであり、敵の姿や戦略は既に見えている。

だとすれば、ジジェクが例示している新旧のイランのように、ある時期に「ゲーム・セット」が起き、その後振り返ってみれば、それが如何に馬鹿げたシステムであったのかがさらに明らかに見えるということだって、希望のひとつとして掲げてもよい。つまり、モード・チェンジ後への予兆を捉えていけば、それらは、馬鹿げたシステムを一秒でも長く維持しようとする者たちにとって、脅威たりうるということだ。

●参照
スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』
スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東』