Sightsong

自縄自縛日記

来間泰男『沖縄の米軍基地と軍用地料』

2014-07-23 22:51:15 | 沖縄

来間泰男『沖縄の米軍基地と軍用地料』(がじゅまるブックス、2012年)を読む。『けーし風』の読者会で、一坪反戦地主会のYさんに教えていただいた本。

沖縄では、本来民有地であった土地が、米軍基地として占有されている。これによる軍用地の地主が収入を得ていることはよく知られた事実であるし、たまに沖縄に足を運ぶだけのわたしのような者にも、軍用地売買の看板は否応なしに目に入ってくる。

土地が米軍に奪われた過程は、「銃剣とブルドーザー」と象徴的に呼ばれている。しかし、この表現は、本書によれば、全面的に当を得たものではない。なぜなら、沖縄戦においてその土地に居られない間に占拠されたものであり、それが、戦後居住している住民を「銃剣とブルドーザー」で暴力的に追い出した土地よりもはるかに広いからである。もっとも、前者も、当然ながら正当な土地の占拠ではないから、それを含めて「銃剣とブルドーザー」と呼んでも問題ないようには思う。

その一方で、地主を暴力だけでなくオカネで屈服させ、そのエスカレートの結果、一部を除く地主が基地の返還を望まない構造になっていることには、説得力がある。その点をいえば、「銃剣とブルドーザー」などではないのである。

本書は、軍用地料の水準がどのように決められてきたかを示し、その問題点をあらわにする。本来、土地を他人に貸して農業を営む場合、地主は地代を受け取り、また農作物の売却益を得る反面、労働報酬を支払わなければならない。しかし、軍用地料の計算は、後者を計算に入れず、「何もせずともその土地において農業が営まれた場合のアガリ」が得られるような想定になっていたのだという。

これは、米軍基地維持のための「アメ」として使われ、労働の倫理も、生活の倫理も、地代の相場も、ゆがめてきた。

一方で、本書には明確には書かれていないことだが、土地の利用による経済は、静的なものではなく、用途や形態が動的に変更されることによって、発展していくはずのものだ。土地の用途や形態がいつまでも限定されていることが、沖縄の経済発展を阻害していると言ってもよいはずである。したがって、軍用地料の水準のみをもって「払い過ぎ」だと論じるのは、アンバランスなのかもしれない。

著者は、「もし米軍基地がなかったら、より経済発展が期待できる」という論理を、米軍基地の存在意義が経済によって左右されかねないものとして退ける。しかし、さまざまな可能性を持った土地を、特定の地主のみに対するオカネの支払いという機能にのみ押し込めてしまうことは、経済を損ねることと断言してもよいのではないか。

いずれにしても、数字によってこの問題を検証した本であり、とても勉強になる。

●参照
琉球新報『ひずみの構造―基地と沖縄経済』