Sightsong

自縄自縛日記

黒沢大陸『「地震予知」の幻想』

2014-08-15 22:31:45 | 環境・自然

黒沢大陸『「地震予知」の幻想 地震学者たちが語る反省と限界』(新潮社、2014年)を読む。

「朝日新聞」における編集委員の連載をもとにしたものだけに、一方的な物言いは回避されていてバランスが取れているが、その分、総花的で主張が見えにくい印象。興味深いエピソードは多いし、わたしも「一丁目一番地」たる地震研究所に修士時代に在籍したので、ここで紹介されている雰囲気の半分は理解できる。

阪神淡路大震災や東日本大震災などの大地震を経て、今では、「地震予知」が不可能であることが周知の事実となった。しかし、いまだに、「○○に大地震が起きる可能性がうんぬん」といった煽り記事が絶えないのは、かつての「予知」への期待の根深さを示すものだろう。

日本の地震対策は、1976年に、石橋克彦氏(当時、東大理学部助手)が「東海地震説」を発表したことにより、歪なものと化していく。あまりにも反響が大きかったのである。そのときから現在までの40年弱の間に、東海地震なるものは起きていない。もちろん、結果論であり、今では、駿河トラフからさらに四国・九州沖まで連なる南海トラフでの大地震の可能性があるものと想定されている。

問題は、ここだけにターゲットが絞られ、多くの予算が「予知」の幻想とともに投入されたことであった。そして、大地震は、駿河トラフでも南海トラフでもない、また活断層として危険視されてきた場所でもないところばかりで起きた。すなわち、「大地震はいつどこで起きるかわからない」ということが、現在の正しい言い方であろうと思われる。(これも結果論である。)

●参照
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』
石橋克彦『南海トラフ巨大地震』
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
『The Next Megaquake 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』続編
大木聖子+纐纈一起『超巨大地震に迫る』、井田喜明『地震予知と噴火予知』


リティ・パニュ『消えた画 クメール・ルージュの真実』

2014-08-15 19:17:49 | 東南アジア

リティ・パニュ『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013年)を観る(ユーロスペース)。

1975年、カンボジア(民主カンプチア)の政権を、ポル・ポト率いる共産主義勢力のクメール・ルージュが掌握した。この政権は毛沢東思想をベースとしており、親中・反越であった。1979年にはベトナム軍がカンボジアを攻撃し、それがクメール・ルージュ独裁の崩壊の原因となり、また、中国による「懲罰」的な中越戦争(1979年)につながることになる。

おそらくは、実情が外部の目に晒されなかったこともあって、米国に勝利したベトナムがなぜ同じ共産主義のカンボジアを攻撃するのかといった波紋もあったはずだ。しかし、いまではよく知られているように、クメール・ルージュの独裁ぶりは酷いものであった。カンボジア住民の犠牲者は、人口700万人に対して、150万人にものぼったという。それは、中国の大躍進政策や文化大革命と同様に、実態を視ないヴィジョンの押しつけと、それを可能にする権力体系によるものだったのだろう。

この映画を撮ったリティ・パニュは、犠牲の当事者であった(1979年に脱出)。彼は、俳優による再現映画でも、残されたフィルムによるドキュメンタリーでもなく、カンボジアの土をこねて作った人形を用いた。その人形たちが、個人としてではなく「数」として扱われ、農村での苦役を強制され、農作物を自分の口に入れることなく餓死していくさまを「演じて」いる。また、9歳の子どもが、食べ物を拾ったといって自分の母親をクメール・ルージュに告げ口し、その咎で母親が処刑される様子を、「演じて」いる。

これはドキュメンタリーの力として強烈だ。これ見よがしな歴史の語りでも、「自分」ではないフィルムによる語りでもない。投影されるのは「自分」なのである。

●参照
石川文洋写真展『戦争と平和・ベトナムの50年』
2012年6月、ラオカイ(中越戦争の場)
中国プロパガンダ映画(6) 謝晋『高山下的花環』(中越戦争)