Sightsong

自縄自縛日記

デューク・エリントン『Hi-Fi Ellington Uptown』

2014-12-28 21:30:52 | アヴァンギャルド・ジャズ

デューク・エリントン『Hi-Fi Ellington Uptown』(CBS、1951-52年)を聴く。

Clark Terry, Willie Cook, Shorty Baker, Ray Nance, Francis Williams、Cat Anderson (tp)
Juan Tizol, Quentine Jackson, Britt Woodman (tb)
Jimmy Hamilton (cl, ts)
Willie Smith (as)
Hilton Jefferson (as)
Russell Procope (as, cl)
Paul Gonsalves (ts)
Harry Carney (bs, bcl)
Duke Ellington, Billy Strayhorn (p)
Wendell Marshall (b)
Louie Bellson (ds)
Betty Roche (vo)

普段あまりエリントンのビッグバンドには縁がないのだが、たまに聴くと芸達者な面々のプレイとぶあついサウンドに痺れる。

すでにモダンジャズ勃興期ではあっても、当然、スイングの尻尾(というか本体?)も見え隠れする。ルイ・ベルソンの前のめりなイケイケのスイング・ドラムスなんて燃えるじゃないか。クラリネットやトランペットのアンサンブルもドヤ顔が見えるようでとても良い(なかでもクラーク・テリーはスカしている)。

そしてエリントン楽団の顔のひとり、ポール・ゴンザルヴェス(よく居眠りしていたそうだ)。この塩っ辛いテナーの音は、コールマン・ホーキンスに共通というより、メローなソフトフォーカスの歌謡曲。イガイガして亀の子たわしのようだ。

「Take the "A" Train」でのみ歌っているベティ・ロシェのスモーキーな声も良い。なんでも、美空ひばりはこの録音を聴きこんで自分のものにしたのだそうである。そういえば、美空ひばりのジャズもしばらくご無沙汰している。また聴いてみようかな。

●参照
デューク・エリントンとテリ・リン・キャリントンの『Money Jungle』
デューク・エリントン『Live at the Whitney』


アンジェイ・ワイダ『カティンの森』

2014-12-28 17:31:28 | ヨーロッパ

アンジェイ・ワイダ『カティンの森』(2007年)を観る。

1941年、独ソ戦争勃発。ポーランドにはこの2国が侵攻した。ソ連が捕虜としたポーランド軍将校たちは、1943年、「カティンの森」において、ソ連軍に虐殺された。当初はドイツによって国際的に喧伝されるが、ソ連は、戦争に勝利すると、このことをドイツの犯罪だとする物語を構築しようとする。ポーランド政府は、その嘘に加担し、異を唱える者を弾圧した。

友人や家族を誰が殺したのか嘘を付けない者たちや、強権政治と密告社会を恐れる者たちへに対する、ワイダの淡々とした視線が印象的だ。ことさらに告発し、あるいはヒロイックな物語にしたとすれば、この迫真性は得られなかったに違いない。

そしてまた、仮に日本において、史実を自虐史観だと攻撃する者と、それに怯える者とを映画化したと想像してみれば、この映画の凄さが実感できようというものだ。

●参照
アンジェイ・ワイダ『ワレサ 連帯の男』


映像『ユーラシアンエコーズII』

2014-12-28 10:32:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

2013年8月に、「ユーラシアンエコーズ第2章」のコンサートに感銘を受けてから1年以上。今年DVDを出したというので早々に入手したのだが、やはり、こういうものは身体と心の調子を整えてかからなければならない。そんなわけで、時間に追われない年末になってようやく観た。

元一(ウォン・イル)(ピリ・打楽器)
姜垠一(カン・ウニル)(ヘーグム)
許胤晶(ホ・ユンジョン)(アジェン・コムンゴ)
沢井一恵(17弦箏)
螺鈿隊(箏4重奏、市川慎、梶ヶ野亜生、小林真由子、山野安珠美)
姜泰煥(カン・テファン)(サックス)
喜多直毅(ヴァイオリン)
齋藤徹(コントラバス)
南貞鎬(ナム・ジョンホ)(ダンス)
ジャン・サスポータス(ダンス)

やはりと言うべきか、また、涙が出そうなほどの感情の高まりが襲ってくる。

演奏される組曲「Stone Out」は、その名前の通り、韓国の偉大なシャーマンにして音楽家の故・金石出(キム・ソクチュル)に捧げられたものだ。そして演奏家の半分は韓国の伝統音楽家であり、同時にアヴァンギャルドである。もちろん姜泰煥や齋藤徹などフリージャズのフィールドにも立っている。ジャズとはいえ、ポジティブな足し算タイプのジャズとはまったく異なり、ここに現出している音楽は、コミュニケーションやアンサンブルのあり方も含め、まぎれもなく東アジアのものであるように感じられる。「アジア」や「異種音楽」といった大きな物語が、決して看板やこけおどしでなく現出していることに感激するのである。

ひとりひとりの音楽に加え、元一と姜泰煥とが隣で出し合う異なった音色・声や、齋藤徹・喜多直毅・姜垠一の音の交換(「なぐさめ」などにおいて)など、交感する音楽も素晴らしい。コンサートに行けなかった人も必見。

もう二度と実現できないという謳い文句ではあったが、また、形を変えた「ユーラシアンエコーズ第3章」が観たい。トゥヴァのサインホ・ナムチラックをメンバーに加えてはどうだろう(姜泰煥とのデュオ盤もあることだし)。


齋藤徹(コンサートにて)

●参照
ユーラシアンエコーズ第2章
ユーラシアン・エコーズ、金石出
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』
ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』
齋藤徹、2009年5月、東中野
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』
パンソリのぺ・イルドン
金石出『East Wind』、『Final Say』
『人はなぜ歌い、人はなぜ奏でるのか』 金石出に出会う旅
姜泰煥・高橋悠治・田中泯
姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2)(姜さんの写真をチラシ・DVDのライナーに使っていただいた)


ミシェル・フーコー『言説の領界』

2014-12-28 01:21:07 | 思想・文学

ミシェル・フーコー『言説の領界』(河出文庫、原著1971年)を読む。フーコーによる1970年の講義録である。

フーコーは、言説には3つの大きな抑制のシステムが課されているとする。第一に、タブー。第二に、狂気を「そのもの」ではなく分割すること。第三に、真理への意志。

特に異質かつ重要視されている第三のシステム。それは脚注というあり方にあらわれているように、相互引用的であり、繰り返しである。すなわち、言説自体は既にオリジナルなものではありえず、当然、誰が語ったのかということは大きな問題ではなくなっている。

ただしそれは、統一的で連続的な大きな母集団に還元されるわけではない。そうではなく、あくまで言説のバウンダリはその言説のレベルにとどまる。言説というお互いに不連続な平行世界があるのだということ、それは、講義前年の『知の考古学』でも提示したことに近いのだろうと思える。

こういった抑制のシステムが発達した背後には、言説の共有やロゴスに対する人々の恐怖があるという指摘がある。なるほど、独占することまでは不可能であっても、言説の使い手を一部の者に制約したいという大きな意思があるわけだ。(フーコーは、抑制のシステムを回避しおおせようとするという点で、ニーチェ、アルトー、バタイユらを評価している。)

確かに、この議論に、70年代以降の権力論につながるリンクを見出すことができるのだと言われれば納得する。相変わらず騙されているような気がするのだが。

●参照
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(1961年)
ミシェル・フーコー『知の考古学』(1969年)
ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール』(1973年)
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)
ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(1970年代)
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
重田園江『ミシェル・フーコー』
桜井哲夫『フーコー 知と権力』
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
ルネ・アリオ『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』
廣瀬純トークショー「革命と現代思想」
廣瀬純『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』