Sightsong

自縄自縛日記

ウィリアム・クライン『TOKYO 1961』、ウィリアム・ゴッドリーブ+ジャン・ピエール・ルロア『JAZZ』

2014-12-27 20:27:28 | 写真

銀座に出たついでに、写真展をハシゴ。

■ ウィリアム・クライン『TOKYO 1961』(AKIO NAGASAWA Gallery)

巨匠による東京覗き見。バラック、路地、映画の看板、銭湯、花街、皇居前、パチンコ。どうしても異邦人の眼による東京になってしまうのが面白い。

■ ウィリアム・ゴッドリーブ+ジャン・ピエール・ルロア『JAZZ』(リコーイメージングスクエア銀座)

こちらも巨匠。見たことがある写真も多い。困ったことに、キャプションの人名が少なからず間違っている。

ゴッドリーブの写真はライティングもピントもばっちり、それに対して、ルロアの写真はそうではない。どちらも良いものは良い。

もっとも印象に残った写真は、立派な歯のサラ・ヴォーン(ゴッドリーブ)と、チャールス・ロイドのグループ在籍中のお茶目なキース・ジャレット(ルロア)。


ウォン・カーウァイ『花様年華』

2014-12-27 10:41:42 | 香港

ウォン・カーウァイ『花様年華』(2000年)を観る。

1962年、香港。同じ日に隣に越してきた男(トニー・レオン)と女(マギー・チャン)は、お互いの結婚相手が浮気をしているのではないかと気付きはじめる。寂寞の中、ふたりは惹かれてゆく。しかし、一緒になることができないまま、男はシンガポールへと逃げ、女も心を固めることができない。60年代後半にそれぞれは香港に戻ってくるが、すれ違い、遭うことはない。男はカンボジアに出向き、アンコールワットの古い遺跡に、記憶の残滓を共有するように、額を押し付ける。

ウォンにとって、薄暗い部屋の壁や、花の影や、佇む人の影や、汚れたガラスや、苔むした石壁といったものは、心が吸い付けられてやまない「記憶」なのだろう。それらは不可逆的に触れないところへと去っていく。映画も、その哀切の念を断ち切るように、突然終わりを迎える。見事。

●参照
ウォン・カーウァイ『恋する惑星』(1994年)
ウォン・カーウァイ『楽園の疵 終極版』(1994/2009年)
ウォン・カーウァイ『グランド・マスター』(2013年)


ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン『Shahen-Shah』

2014-12-27 08:50:29 | 南アジア

久しぶりにヌスラット・ファテ・アリ・ハーンを聴きたいと思い、『Shahen-Shah』(Real World、1988年)を入手。

言うまでもなく、イスラム教神秘主義スーフィズムの音楽カッワーリーの偉大な歌い手である。この人ばかりは、生前のパフォーマンスに接することができなかったことが残念でしかたがない。

Nusrat Fateh Ali Khan (vo)
Mujahid Mubarik Ali Khan (vo)
Farrukh Fateh Ali Khan (vo, harmonium)
Iqbal Noqbi (chorus)
Asad Ali Khan (chorus)
Dildar Hussein (tabla)
Kaukab Ali (vo)
Atta Fareed (chorus)
Ghulam Fareed (chorus)
Mohammed Maskeen (chorus)

歌詞は、CDの解説によれば、アッラーやムハンマドを讃えるものであったり、愛の切なさを説いたものであったりする。もちろんウルドゥー語などによる歌唱であり、直接には解らない。しかし、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの映像『The Last Prophet』においては、パキスタンのレコード店に集う男たちが言う。日本では若者がヌスラットを聴いている、彼らは歌詞が解らないが心に刺さってくると言うんだよ、それこそがカッワーリーだ、と。

それは声の力でもあり、繰り返しを基本とする音楽全体の力でもある。ハルモニウムとタブラが基底のサウンドを作り、多数のコーラスが(教えや愛情といったものへの)想いを幾度となく切々と繰り返す中を、ヌスラットの高くよく通るヴォイスがこれでもかと脳を揺らす。聴き手は半覚醒のようなところに連れて行かれる。

●参照
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの映像『The Last Prophet』