Sightsong

自縄自縛日記

アンサンブル・ゾネ『飛ぶ教室は 今』

2015-11-29 22:00:07 | アヴァンギャルド・ジャズ

両国のシアターカイに足を運び、アンサンブル・ゾネ『飛ぶ教室は 今』を観る(2015/11/29)。「即興戯曲 音楽×ダンス」と位置づけられている。

Aki Takase 高瀬アキ (p)
Rudi Mahall (bcl, cl)
Nils Wogram (tb)
岡登志子 含め10名 (dance)

何しろ久しぶりのルディ・マハールである。1996年にベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラの一員として来日したときには、エヴァン・パーカーの横で、パーカーのソロを悶えながら嬉しそうに聴いていたことを覚えている。しかし、かれのバスクラだって聴いたことがないような個性的なものであった。その翌年だったか、シュリッペンバッハ・トリオの一員としてエヴァン・パーカーが来日する筈だったが、妻の手術とのことでキャンセルとなり、マハールが代役に抜擢されたのだった。新宿ピットインと六本木ロマーニッシェス・カフェで間近で目撃し、かれの個性は脳に刻みこまれた。わたしにとっては、それ以来である。

今日観たマハールの頭はかなり白くなっていたが(まだ若いはずだが)、長身の体躯を柔軟に動かしながら、バスクラらしからぬ高音域や滑るような音を発する姿は、以前のままだった。

会場には、中心に学校の椅子が十脚置かれ、隅にピアノ、その横にマハールとニルス・ヴォグラムの譜面台。それを取り囲む形で、観客の椅子が据えられた。ダンサーたちは、コミカルに、また変質した幼少時の記憶のように奇怪に、次々に踊り続ける。音とダンスとが間接的に絡むだけではない。ときにマハールとヴォグラムとは踊り場の中を吹きながら練り歩き、かれらにダンサーたちが悪夢のように憑りついた。高瀬アキも、ブギウギ・ピアノ、ブルース・ピアノ、そしてやはりダンサーの中に飛び込んで行く。

この抑えた忍び笑いの感覚と高笑いの感覚。タイムマシンでどこかに連れていかれたようでもあった。

●参照
「失望」の『Vier Halbe』(マハール参加)
『失望』の新作(マハール参加)
リー・コニッツ+ルディ・マハール『俳句』
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(マハール参加)


ジル・ドゥルーズ『スピノザ』

2015-11-29 19:48:10 | 思想・文学

ジル・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』(平凡社ライブラリー、原著1981年)を読む。

バールーフ・デ・スピノザは、主著『エチカ』(1675年頃)において、神の完全性・全体性の前では人間の解釈などどうしたって「足りない」ものとなることを説いた。素人のわたしが読んで捉えたところでは、

完全性(実体)は神にのみあるのであって、しかもそれは唯一のものである。様態のごときものは実体の個々のあらわれに過ぎぬ。人間精神もまた同様なのであって、それぞれ不完全であらざるを得ない。善だの悪だのといった判断は、不完全なこちら側での不完全な決めつけである。だからこそ、不完全性を知ること、不完全な個々の人間同士を知ることが、精神向上への唯一の道である。如何に完全を希求しても不完全でしかあり得ない、しかし、それをしないこと(無知)は、ドレイへの道である。

といったところ。ドゥルーズは、このことを、倫理と道徳の違いとして説明する。道徳も法も規範も、「足りない」人間が定めるものである以上、「正しくない」可能性を秘めたものにならざるを得ない。ガリレオが異端の徒として裁かれたのが1633年(田中一郎『ガリレオ裁判』)、スピノザが生まれたのが前年の1632年。異端かどうかは、聖書等の記述から外れていないかによって判断される。スピノザの独自極まりない思想によれば、「足りない」人間の行為である。当時のキリスト教会から攻撃されたことも納得できるというものだ。

ドゥルーズによれば、喜びは全体性に能動的に向かってゆくこと、悲しみは道徳や法や規範によって受動的になったときに発生するものである。この、常に新たな形態をつくりあげていくことを説いたドゥルーズが次のように書いているのを読むとき、意味作用の壁の上にピンで止められ顔が描かれる権力作用たる「ホワイト・ウォール―ブラック・ホール」の思想と、スピノザの思想とが重なるように思える。

「・・・私たちは、スピノジストならば、なにかをその形やもろもろの器官、機能から規定したり、それを実体や主体として規定したりしないということだ。中世自然学の、または地理学の用語をかりていえば、経度(longitude)と緯度(latitude)とによって規定するのである。(略)私たちは、ひとつの体を構成している微粒子群のあいだに成り立つ速さと遅さ、運動と静止の複合関係の総体を、その体の<経度>と呼ぶ。ここにいう微粒子(群)は、この見地からして、それら自体は形をもたない要素(群)である。私たちはまた、各時点においてひとつの体を満たす情動の総体を、その体の<緯度>と呼ぶ。いいかえればそれは、〔主体化されない〕無名の力(存在力、触発=変様能力)がとる強度状態の総体のことである。こうして私たちはひとつの体の地図をつくりあげる。このような経度と緯度の総体をもって、自然というこの内面の平面、結構の平面は、たえず変化しつつ、たえずさまざまの個体や集団によって組み直され再構成されながら、かたちづくられているのだ。」

●参照
スピノザ『エチカ』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』


レイモンド・マクモーリン@h.s.trash

2015-11-29 07:55:33 | アヴァンギャルド・ジャズ

レイモンド・マクモーリンの演奏を観るために、市川駅近くの「h.s.trash」に足を運ぶ。浦安のバーで名前を聞いたり、トランぺッターのジョシュ・エヴァンスに話を訊いたらジャッキー・マクリーンの教え子ということでかれに言及したりと、気になっていた人なのだった。演奏の開始を待っていると、浦安のカフェの店員さんたちに声をかけられたりして、どこなんだここは、という。

Raymond McMorrin (ts)
Sohei Iwasaki 岩崎壮平 (p)
Kotaro Kobayashi 小林航太郎 (b)
Yosuke Tamura 田村陽介 (ds)
?(飛び入り参加)(b)

「I've Never Been in Love Before」、ジョー・ヘンダーソンの「Recorda Me」から倍音によるテナーソロでつなげて「Body and Soul」、お兄さんに捧げたというオリジナル、シダー・ウォルトンの「The Highest Mountain」、ソニー・ロリンズの「Sonnymoon for Two」からセロニアス・モンクの「Blue Monk」につなげ、やはりモンクの「Rhythm-A-Ning」、「In A Sentimental Mood」と、ジャズスタンダードが中心。

マクモーリンのテナーは、低音を活かしながら幅広い音域を使い、ときに倍音やひしゃげた音を聴かせるものだった。ストレートな迫力も工夫もあった。田村さんのシメるドラムスや小林さんの歌うようなベースの気持ちよさもあって、ずっと没入して聴いた。

エイブラハム・バートン、ルネ・マクリーン、ジョシュ・エヴァンス、ジャッキー・マクリーン、浦安の接骨院(笑)についてなど、もろもろの話をしながら、方向が同じレイモンドさんやカフェ店員の大学生たちと一緒に電車で帰った。

Fuji X-E2、XF60mmF2.4