Sightsong

自縄自縛日記

『越境広場』2号の東松照明特集

2017-05-02 21:33:15 | 沖縄

『越境広場』誌の第2号(2016/7/30)では、東松照明特集を組んでいる。

本当は去年出てから早々に読みたかった。もとより東松照明は、政治、制度、内外、テキストなど様々な側面において常にその評価が割れてきた写真家であり、また、出た直後の10月には(論争の渦中にある)比嘉豊光氏よりその一部を見せられて仰天してしまったこともあったから。しかし、わたしが眼を病んでしまい、しばらく控えざるを得なかった。

比嘉豊光さん手持ちの、東松照明の発言否定についての箇所

上の写真にある箇所は、本誌所収の新里義和「東松照明×森山大道」の一部分である。ここで、東松照明がかつての自身の発言を否定していた。以下の有名な発言である。

「いま、問題となっているのは、国益のためとか社会のためといったまやかしの使命感だ。率直な表現として自分のためと答える人は多い。自慰的だけどいちおううなずける。が、そこから先には一歩も出られない。ぼくは、国益のためでも自分のためでもないルポルタージュについて考える。 被写体のための写真。沖縄のために沖縄へ行く。この、被写体のためのルポルタージュが成れば、ぼくの仮説<ルポルタージュは有効である>は、検証されたことになる。波照間のため、ぼくにできることは何か。沖縄のため、ぼくにできることは何か。」(「南島ハテルマ」、『カメラ毎日』1972年4月号所収)

ここにある、気負いが服を着たような思い、沖縄へのラブレター。何も沖縄を利用して自己表現を展開しようというのではない。自己ではない、沖縄である。だがそれは表現の目的にはちがいない。新里氏の見立てによれば、これを発言したすぐあとに、何かのためにする写真に猛反発し同時に先達の東松にも反発した森山大道からの影響があった。森山は夜の街を撮ろうとも俗を撮ろうとも、意識的には、視覚に入る断片をすべてイーブンに扱った。

興味深い指摘ではある。しかし、そのあとも東松照明は太い物語を抱え込む東松照明のままではなかったか。そしてこの発言否定についても、実は、さほどセンセーショナルなものではない。

東松亡きあとに『太陽の鉛筆』新編を世に出すことに関わった今福龍太氏は、比嘉豊光氏からの反発に対してかなり直接的に感情的なものを吐露している。すなわち、オリジナル写真集至上主義はおかしいということ、単なる「文化収奪」「植民地主義」というクリシェでは「沖縄への恥辱はどんどん上塗りされていくだけ」だということ。

問題は後者である。クリシェでは抵抗できないなどとヤマトが沖縄に対して言うことができるのだろうか。

石川竜一氏は、東松写真、沖縄における写真について、おそらくは破壊と寄り添いというふたつの面が共存することを指摘する。前者は自由に、後者は責任に関係する。その上で以下のように締めくくっている。あやうい淵に立ち写真作品をものしてきた石川氏であるからこその発言にちがいない。ちょっとぞくりとさせられる。

「・・・その自由には当然の責任がついてきて、その責任を果たすには、世界に対する精一杯の思いやりと、行動に対する細心の注意と、自分への覚悟をもつ必要がある。そして、その自由から逃げてはいけない。」

やはり写真家の石川直樹氏は、2016年に開催された東松照明写真展『光源の島』の発見の経緯について説明している。確かに写真は素晴らしかった。しかし、東松の偉大さを疑ってはならないという空気が充満していたことも事実である。本誌の論考群においても、そこから逃れ得ていないように思われた。

●参照
『越境広場』創刊0号
『越境広場』1号
東松照明『光源の島』
平敷兼七、東松照明+比嘉康雄、大友真志
東松照明『光る風―沖縄』
「琉球絵画展」、「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」、「赤嶺正則 風景画小品展」
豊里友行『沖縄1999-2010』、比嘉康雄、東松照明
東松照明の「南島ハテルマ」
東松照明『新宿騒乱』
青木亮『二重被爆』、東松照明『長崎曼荼羅』
沖縄・プリズム1872-2008
仲里効『フォトネシア』
仲里効『眼は巡歴する』


豊住芳三郎『Sublimation』

2017-05-02 20:23:32 | アヴァンギャルド・ジャズ

豊住芳三郎『Sublimation』(Bishop Records、2004年)を聴く。

"Sabu" Toyozumi 豊住芳三郎 (ds, perc)
Satoshi Iizuka 飯塚知 (as, ss)
Hideaki Kondo 近藤秀秋 (g)
Jun Kawasaki 河崎純 (b) 

やはりここでも活力を体現したような豊住芳三郎、その叩きっぷりはどのような意味であろうとも独尊。日本的なのかシカゴ的なのか、その両方なのか、なんとか的ではないのか。パルスの重さにも気圧される。まるでハヌマーンが奇矯な恰好で空を翔けてゆくような姿を幻視する。

独尊とは言え相手あってのことであり、ここで相対する3人のプレイにもまた迫力を感じる。はじめは皆横目で互いを睨みつつも敢えて抑制したような演奏を続ける。だが白眉は最後の5曲目「Lofty Resistance」。弦の軋みを吹いたような飯塚知のサックス、方法論的にも強度を表現した近藤秀秋のガットギター、暴走せぬよう一音一音に力を込める河崎純のコントラバス、それらが軋みの魔法陣を形成する。その中を駆け抜ける豊住芳三郎。

ところで近藤さんには、先日はじめてお会いしたときに、演奏もなさるのですねなどと間抜けで失礼なことを聞いたのだった。これを聴いてしまったいま、穴があったら入りたい。

●豊住芳三郎
ブロッツ&サブ@新宿ピットイン(2015年)
ポール・ラザフォード+豊住芳三郎『The Conscience』(1999年)
加古隆+高木元輝+豊住芳三郎『滄海』(1976年)
加古隆+高木元輝+豊住芳三郎『新海』、高木元輝+加古隆『パリ日本館コンサート』(1976年、74年)
豊住芳三郎+高木元輝 『もし海が壊れたら』、『藻』(1971年、75年)
富樫雅彦『風の遺した物語』(1975年)


飯島晃『COMBO RAKIA'S』

2017-05-02 11:43:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

飯島晃『COMBO RAKIA'S』(SUPER FUJI DISCS、1990-91年)を聴く。

Akira Iijima 飯島晃 (g)
Yuriko Mukojima 向島ゆり子 (vln, toy p, vo) (Disc 1)
Tatsuro Kondo 近藤達郎 (accordion, harmonica) (Disc 1 M1,8, Disc 2)
Takero Sekijima 関島岳郎 (tuba, bass tb) (Disc 1 M2-7, Disc 2)
Masami Shinoda 篠田昌巳 (as, ss) (Disc 2)

なんて不可思議で奇妙で静謐な世界か。同時期の『コンボ・ラキアスの音楽帖』(1990年)と同様に、息をひそめて聴き入り、萩原朔太郎『猫町』や宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を思い出してしまう。

録音も良い。丁寧な関島岳郎のチューバ、抒情あふれる篠田昌巳のサックス、透明で伸びやかな向島ゆり子のヴァイオリン。それらの薄紙が静かに重ね合わされ、わずかな光を透過することで別の模様が浮かび上がってくる。こんな素晴らしいサウンドがなぜ今まで眠っていたのだろう。

向島さんによる解説がとても興味深い。飯島晃の作曲手法と演奏の指示についてである。すなわちそれは、西洋の即興とは逆に、「メロディは共有するけど時間軸は自由」としたものだった。それでこその独特さか。

●飯島晃
飯島晃『コンボ・ラキアスの音楽帖』
(1990年)


ジャック・デリダ『嘘の歴史 序説』

2017-05-02 09:56:27 | 思想・文学

ジャック・デリダ『嘘の歴史 序説』(未來社、講演1997年)を読む。

嘘とは?嘘の歴史性とは?

もちろんここで、デリダは歴史修正主義を告発しているわけだが、ことはそう単純ではない。隙も許されぬほど厳格な真実性を求めたカント、社会的存在としての振る舞いを体現したようなアーレントを引用しながら、デリダの思索は、「真実」がそこにあるかのような前提を取り払う。

嘘をつこうとして発する嘘こそが嘘。政治の場においては、伝統的にそれが特権的な領域となってきた。そういった歴史修正主義に対し、テッサ・モーリス=スズキは、歴史とは「過去への連累」であり、「真摯さ」をもって対峙し、各々が抱え持つべきものだと説いた(『過去は死なない』)。

しかし、ここにも落とし穴がある。視るべき対象としては、支配側からの一方向のベクトルだけではなく、逆方向のベクトルもあるということだ。反体制の者やリベラルの者が、「かれは歴史修正主義に対して沈黙していた」と正義感によって決めつけられるとしたら、それも嘘なのではないか、というわけである。ここでデリダはアーレントを引用し、自己への嘘、自己への欺瞞という考えを提示する。アーレントもそれにより苛烈な批判の対象となった。そしてまた、それらにも属さない反ー真理がある。

重要な指摘が書かれている。

反―真理をそれと認識せずに体現してしまった善意の者が、「語る前に知っていることすべてを知ろうとしなかったのは、彼が結論に達することを急いでいたから」ということ(65頁)。

「事象そのものの人工的なアーカイヴの抽出、選別、編集、画面構成、代替」によって、「『情報を知らせる』ために『歪曲をおこないます』」という操作、その限界を見出すためのメタ解釈。(84頁)

SNSや運動の言説においても、怒りに集中させたようなものが「ウケる」。それが如何に正当なものであっても、そこには「『情報を知らせる』ために『歪曲をおこないます』」という操作が見出されるのではないか。

●参照
ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(2006年)
ジャック・デリダ『言葉にのって』(1999年)
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(1997年)
ジャック・デリダ『死を与える』(1992年)
高橋哲哉『デリダ』(1998年)
ガヤトリ・C・スピヴァク『デリダ論』(1974年)
ジャック・デリダ『声と現象』(1967年)


三上寛+石塚俊明@アケタの店

2017-05-02 09:19:08 | アヴァンギャルド・ジャズ

久しぶりに西荻窪のアケタの店に足を運び、三上寛+石塚俊明(2017/5/1)。ちょっと前に浦安の呑み友に煽られてすっかりその気になった。

三上寛 (vo, g)
石塚俊明 (ds) 

黒地に緑色で胸と腹の筋肉、さらに赤いマフラーが描き込まれている、仮面ライダー1号Tシャツ。上述の呑み友の話では、西成で購入したそうである。ステージ以外に着る場所があるのだろうか。そして三上寛さんは12年ぶりに観るのだが、ずいぶん痩せている。どうやらみんなそう言っているようである。

さてそこから先は三上寛世界。寺山修司。深沢七郎。十九の春。エロ。夢は夜ひらく。百合子先生山羊連れて。あしたのジョー。震えると同時に腹筋が痛い。ときおり発する凄まじい効果音。 

石塚俊明のドラムスは穂先で弄びつつ急に踏み込んでくる。相性抜群。

●参照
三上寛『YAMAMOTO』(2013年)
どん底とか三上寛とか、新宿三丁目とか二丁目とか
中央線ジャズ
三上寛+スズキコージ+18禁 『世界で一番美しい夜』(2007年)
三社『無線/伊豆』(2006年)