高見勝利『憲法改正とは何だろうか』(岩波新書、2017年)を読む。
日本国憲法を改正するためには、衆参各院で議員の3分の2、その後に国民投票に持ち込んで過半数の賛成を必要とする(第96条)。政権与党の力が歪に強くなっている今、ここぞとばかりに憲法改正の動きが再燃しているわけだが、このプロセスが高いハードルであることは間違いない。
そう簡単には改正などできないことに関しては長い議論や模索があって、法と主権者との関係や統治のあり方についての考え方によって、憲法の位置づけも変わってきた。日本国憲法の制定においても紆余曲折があった。しかし、立憲主義の憲法は通常の法とは異なり、憲法の自殺行為とも言うべき根本原則の変更には大きな制約が課せられる。
その観点から、著者は、自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年)に強い危惧を抱いている。例えば、第13条の「個人」を「人」に言い換えることを、前近代の社会的圧力により自我が抑圧された時代に戻すものとする。もちろんそれだけではない。根本には、権力分立原理が欠如しており、また、「憲法が権力を縛る」ことも否定する考え方がある。著者は、それを権力の濫用だとみなす。そしてまた、憲法改正自体が自己目的化しているのだと指摘する。
「このような「憲法改正」それ自体を「選ばれし者」のいわば「召命」とする為政者が、いまわが国を支配しているのである。改正内容、改正がもたらす「結果」をなんら顧慮しない危険きわまりない改憲論者である。」