Sightsong

自縄自縛日記

山田健太『沖縄報道』

2019-08-29 23:13:42 | 沖縄

山田健太『沖縄報道―日本のジャーナリズムの現在』(ちくま新書、2018年)を読む。

戦後現在に至るまでの沖縄におけるひどい事件と状況を追いかけている者にとっては、本書で整理されている情報は言ってみれば復習である。しかし復習であっても、いかにひどいかをあらためて思い知らされる。沖縄は日本にとってそのような場所であり続けてきた。

では報道はどうか。数字で事件ごとの報道量を示されると一目瞭然である。日本、とくに産経や読売は、都合の悪いことをほとんど報道せず、都合のよいことが起きると急に情報量を増やしている。政府がメディアへの介入のタテマエに使う公平で客観的な報道など、最初からないのである。もっと広く言えば、「数量平等原理」が報道においても教育においても悪用されている。

そのような中で、沖縄において琉球新報と沖縄タイムスという二大紙が存在することが如何に健全なことか、よくわかる。そしてそれゆえに、沖縄のメディアはおかしな政府の動きに極めて敏感であり続けている。

「沖縄が「闘っている」ものは、かつては米軍であり、国民の無関心であったといえようが、いまは日本政府であり、本土の偏見であり、そして県民の亀裂にかわってきている。」

「ジャーナリズム倫理として、「公正さ」は大切な基準であるといえ、その公正さとは、真ん中をさすのでも中庸をさすのでもなく、むしろ社会に埋もれがちな小さな声を拾うことや、弱い者の側に立つことを指す概念だからだ。これからすると、沖縄二紙の紙面編集方針が、公正さを実践する報道であることがわかるのであって、「偏向」報道批判は誤った解釈に基づくものといえる。」

●参照
森口豁『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』(1995/2019年)
島洋子『女性記者が見る基地・沖縄』(2016年)
三上智恵・島洋子『女子力で読み解く基地神話』(2016年)
島洋子さん・宮城栄作さん講演「沖縄県紙への権力の圧力と本土メディア」(2014年)


ハービー・ハンコック『Nice Jazz Festival 1987』

2019-08-29 22:07:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

ハービー・ハンコック『Nice Jazz Festival 1987』(Jazz Time、1987年)を聴く。

Herbie Hancock (p)
Buster Williams (b)
Al Foster (ds)

アル・フォスターの豪放なドラムスが嬉しい。今となってはベタなロン・カーター、トニー・ウィリアムスとのトリオよりも良いんじゃないかと思える。ハービーがファンク路線もやりつつ、アコースティックピアノも商売ではない意気で弾いていたのだという証拠。

ジーン・ジャクソンがハービーのグループに入るのは1991年、ジーンとの傑作ピアノトリオ『Herbie Hancock Trio 1993』を吹き込むのはその後である。「Just One of Those Things」を聴き比べると、ジーンとアル・フォスターの個性の違いが浮かび上がってくる。

これも公式盤ではなかったし、ハービーはこの手の演奏を作品として残したい気持ちが希薄だったのかな。勿体ない。

●ハービー・ハンコック
ハービー・ハンコック『Jazz in Marciac 2017』(2017年)
小沼ようすけ+グレゴリー・プリヴァ、挟間美帆 plus 十@Jazz Auditoria(2017年)
ドン・チードル『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス空白の5年間』(2015年)
ハービー・ハンコックの2014年来日ライヴ(2014年)
『A Tribute to Miles Davis』(1992年)
ジョージ川口『Plays Herbie Hancock』(1987年)

ベルトラン・タヴェルニエ『ラウンド・ミッドナイト』(1986年)
ハービー・ハンコック『VSOP II TOKYO 1983』(1983年)
ハービー・ハンコック『Chicago 1981』(1981年)
ハービー・ハンコック『Velden 1981』(1981年)
ジャッキー・マクリーン『The Complete Blue Note 1964-66 Jackie McLean Sessions』(1964-66年)
マイルス・デイヴィスの1964年日本ライヴと魔人(1964年)