サミラ・マフマルバフ『ブラックボード ―背負う人―』(2000年)を観る。父親がモルセン・マフマルバフ、妹がハナ・マフマルバフ、映画一家か。1980年生まれだというから、この映画を撮ったとき、この女性はまだ20歳前後だった。それにしてはステレオタイプでもベタベタでもなく、随分と手練れの印象がある作品だ。
映画は、黒板を背負った男たちが土と岩の山道を歩いている場面からはじまる。生徒を探して歩き続けている教師たちである。それぞれ行く方向が別れてゆき、画面に残ったふたり(そのひとりは、先日来日できなかった映画監督のバフマン・ゴバディ)も、村の方向と山の方向へと別れる。それぞれ、遭う人ごとに生徒はいませんか、何か教えますよと声をかけるが、ことごとく冷たくあしらわれてしまう。
子どもたちは、大きい荷物を持って、イランからイラク側へと密貿易をしている。名前を教えたりしているうち、次第に溶け込んでいく。老人たちは、どうやらクルド人らしく、追い出されてイランを放浪していたものの、故郷のイラク側にやはり入ろうとしている。こちらは固陋で、何か教えるという展開になりそうもない。
やがてそれぞれの一行は国境に近付く。密貿易の途中で兵士に見つかりそうになって必死で逃げるのは、ゴバディ『酔っぱらった馬の時間』(これも2000年)でも何度も使われたプロットだ。子どもたちは羊の群れに四つん這いで紛れ込むも、イラクの兵士に見つかり、次々に撃ち殺されていく。
また老人たちも兵士から逃げる。そのなかにいた女性は、「ハラブチェと同じだ。毒ガスでやられるんだ」とうわごとのように繰り返す。ハラブチェとは、イラクのクルド人地域の町であり、サダム・フセイン政権がイラン・イラク戦争の際に化学兵器でクルド人たちを攻撃した歴史がある。
それにしても奇妙なストーリーだ。いま勉強しなければならない子どもたちにとっても、勉強の時期を過ぎてしまった老人たちにとっても、生きること、死なないことで精一杯で、黒板を使ってあらためて勉強をはじめるなど非現実的である。それに、黒板を背負って行商人のように移動する教師などいるのだろうか。しかし、そのために却って、メッセージ性が強烈なものとなっている。
イラクの故郷に帰っていくクルド人の老人たちは、霧の中に吸い込まれていく。まるで、テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』(1988年)のようだ。あの哀れな姉弟と同じく、老人たちはどうなっていくのだろうか。フセインが拘束されるのは、映画から3年後の2003年である。
●参照
○バフマン・ゴバディ『酔っぱらった馬の時間』
○ジャファール・パナヒ『白い風船』
○アッバス・キアロスタミ『トラベラー』
○アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』
○シヴァン・ペルウェルの映像とクルディッシュ・ダンス
○クルドの歌手シヴァン・ペルウェル、ブリュッセル