Sightsong

自縄自縛日記

何平『双旗鎮刀客』

2010-07-18 23:51:21 | 中国・台湾

北京で買ってきたDVD、何平『双旗鎮刀客』(1990年)を観る。13元(170円位)だった。

中国マカロニ・ウェスタンという雰囲気の作品で、新疆ウイグル自治区あたりのロケだろうか。荒野の中の悪辣な男たちに支配された街も、命惜しさに身を潜める住人たちも、調子の良い愉快な男も、お約束である。勿論お約束だから愉しいのだ。

主役の少年は、亡くなった父親が友人と約束したのだという、結婚相手を探している。その友人は片足が不自由で、娘の尻にはほくろがある。少年は気弱だが、カンフーと剣術を習得しており、両足には常に剣を差している。その少年が凄みを見せるのはわずか3回。斧でもさばくのに苦労する枝肉を剣で真っ二つにするシーン、結婚相手の娘が襲われそうになったときに悪人を倒すシーン、そして復讐に現れた悪人との対決シーン。

しかし、チャンバラはない。二番目のシーンは一瞬であるし、三番目の決闘シーンなどは砂嵐で見えない。それを補って余りある緊張感が、演出から生まれている。何と決闘を前にして、少年は手を震わせ、身体を動かすことができない。酔っ払いに頭から酒をかけられる有様なのだ。もっとも、これもお約束であって、何かが起きて少年が勝つことはわかっている。

いまどきのワイヤーアクションも好きだが、このように抑えた緊張感がある演出も捨てがたい。


スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』

2010-07-18 03:03:04 | 政治

スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』(ちくま新書、原著2009年)を読む。

数日前に読了していたのだが、さてこの取りとめのない書をどう受け止めるべきかと考え、頁を行きつ戻りつしていた。饒舌で、ああ言えばこう言う、頭がまとまらないオッサンである。時に意を決して結論めいたものを提示してみるが、これがまた妙にナイーヴで、しかもさっき言っていたことと違うじゃん、オッサン!酔っぱらいの戯言か?オビにある「知の巨人」なんてとんでもない、お笑いだ。しかし滅法面白いのだ。頭を混ぜっ返すさせるにはもってこいの書である。

「はじめて意味を解体した社会・経済制度」である、グローバル資本主義という化け物をどう捉えるか。大きな経済主体が経済を駆動し、その利益が小さい主体にポタポタと配分されるとする「トリクルダウン」論―――キャッチーに言えば新自由主義なり小泉・竹中流なりということになるのだろう。ジジェクは、これに批判的な左派のそもそもの経済的な理解を物足りない(これは本当だ)とする一方、実際にはトリクルダウンどころか下の者が上の者を支える制度に過ぎないと喝破する。しかし、脆弱でありながら崩壊しないこの化け物は、はみ出したものをすべて呑み込み、また自己を駆動する。その意味で、アントニオ・ネグリの言う<マルチチュード>は、グローバル資本主義が呑み込む価値のひとつに過ぎないとする。

(社会保障などの)<埋め込み>を重視する社会主義、リベラル民主主義はどうか。これにもジジェクはダメ出しをする。旧来の社会主義は社会・経済を駆動する力を持たず、何かに寄生しなければ成立しえず、<排除される者>やグローバル資本主義を清濁併せ呑む度量もない、と言いたいのだろう(そのため、ネグリの最近の著作『Goodbye, Mr. Socialism』(邦題『未来派左翼』)のタイトルに賛意を表している)。

しかしその一方で、環境や農業や水などのコモンズの<埋め込み>を熱心に説いているのである。地球温暖化問題が市場の失敗であった、これはまあ正しいとして、その返す刀が<埋め込み>だけだというのは余りにも薄っぺらで、環境経済に対する理解が皆無だということがわかる。環境だけではなく、あちこちにおかしな意見が散りばめられている。たとえば、ボリビアのエボ・モラレス政権に対する批判も的を射ていない。

それでは何を目指せばいいのか。これがナイーヴ過ぎるためか、形を変えてちょっとずつ囁いている。イデオロギーとして信じないけれども巧くいくことがわかっているグローバル資本主義などではなく、歴史の裂け目が生じることを信じて、コミュニズムの原点から何度も出発すること。グローバル資本主義の<無秩序>に対して<新たな秩序>を構築すること。国家の外からではなく国家の中にあって、非国家的なものを志向すること。<排除される者>を基盤とした政策を採るのではなく(これがモラレス批判のひとつ)、すべてを包摂すること。

「信じることさ」なんて余りにも能天気な。

●参照
スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東』
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)


平川宗隆『沖縄でなぜヤギが愛されるのか』

2010-07-17 09:01:28 | 沖縄

沖縄でヤギ料理が根付いていることは知ってはいるものの、那覇で1回と東京で1回、刺身を食べたことがあるだけだ。それはあっさりしたもので、よく聞かされる独特のニオイがどんなものか未だに知らない。スペインでヤギ乳のチーズを買ってきたが、それもまた別物。自分は食べ物に関しては保守的なのだ。

平川宗隆『沖縄でなぜヤギが愛されるのか』(ボーダー新書、2009年)を読んでわかるのは、東アジアから東南アジア、南アジアにかけて<ヤギ食い>がむしろ一般的な食文化であり、海を介したつながりが強い沖縄が<ヤギ食い>文化圏に入っていることは自然であることだ。

その沖縄のヤギにしても、白いヤギは新しい種類だという。在来種は黒や茶色の種であり、中東から中国、または東南アジアを経て伝来していた。そして昭和になるかならないかの頃、長野県から「日本ザーネン種」を導入した結果、主流が白になっている。家畜として身体の大きな種が好まれた結果であった。それでも、人口や観光客が多い本島では白の割合が高く、離島ではまだ在来種が比較的残っているらしい。

本書で紹介されている各国のヤギ料理は面白い。ベトナムの料理には、ヤギの動脈血に塩を入れて固め、その中に生肉を入れた強烈な<ニンビン>がある。血を使うのは珍しくないようで、沖縄にも固めた血を炒めた<チーイリチャー>があるというし、波照間島の(昔のやんばるでも)ヤギ汁は味噌と血を混ぜ合わせて味付けをしているという。

次に沖縄を訪れる際には、ぜひヤギを食わなければなるまい。

●参照
岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側(石垣島で生きた山羊を焼く)
平敷兼七『山羊の肺』
G.I.グルジェフ『注目すべき人々との出会い』(砂漠で山羊に砂を食べさせ、その山羊を食べ・・・)
アーヴィング・ペン『ダオメ』(レグバ神に生贄の山羊の血を塗る)
ロシア・ジャズ再考―セルゲイ・クリョーヒン特集(ステージで山羊の毛を刈る)


『弁護士 布施辰治』

2010-07-17 00:16:57 | 韓国・朝鮮

座・高円寺で、『弁護士 布施辰治』(池田博穂、2010年)を観る。完成したばかりの映画の有料試写会である。会場はほぼ満員に近い。上映前、監督が壇上に登り、布施辰治は田中正造のDNAを受け継いでいるのだ、と語った。

映画は、人権弁護士と簡単に一言で済ませられない凄絶な活動を追っている。朝鮮における1919年の三・一独立運動を受けた独立宣言とその弾圧。1923年、関東大震災の後のデマによる朝鮮人虐殺事件。1926年、天皇暗殺を企てたとするでっち上げの朴烈事件。1928年、日本共産党大量検挙の三・一五事件。国家権力による暴力に対し、布施辰治は弁護により抵抗する。

これらが、日本政府とメディアとが連携して起こし続けた国家テロだったことも浮かび上がってくる。ところで、アナーキスト朴烈だが、帰宅して調べてみると、事件による死刑判決、恩赦での無期懲役への減刑、情婦の獄中での自殺、反共主義への転向、韓国への帰国と李政権下での重用、朝鮮戦争での北朝鮮軍による虜囚、北朝鮮の南北平和委員会の副委員長など、劇的な生涯であり興味深い。

映画には姜尚中が登場し、このように語っている。大文字の「国家」や「国民」といった目線ではなく、一人一人の有りようを認識していた人物であった。あまり知られていないが、現在に通じる先駆的な存在であった、と。

●参照
布施柑治『ある弁護士の生涯―布施辰治―』


北京の散歩(6) 天安門広場

2010-07-15 22:39:17 | 中国・台湾

天安門広場は観光客だらけだ。旗を持った人に引率されていたり、記念写真を撮っていたり。それでも余りにも広いので、人口密度は高くない。

20年とちょっと前、戦車が市民に向かっていった記憶はどこに染みついているのだろうか、と思った。何度も北京に足を運んでいるのに天安門広場に入るのは初めてだったが、テレビで見た記憶が邪魔していたのかもしれない。そういえば、趙紫陽の自伝をまだ読んでいなかったな。

※撮影はすべてPENTAX MX、M35mmF2.0、Tri-X、ケントメアRC、2号フィルタ


地下道から広場へ


休息


母子


ツアコン


子ども中心

●中国の古いまち
北京の散歩(1)
北京の散歩(2)
北京の散歩(3) 春雨胡同から外交部街へ
北京の散歩(4) 大菊胡同から石雀胡同へ
北京の散歩(5) 王府井
北京の冬、エスピオミニ
牛街の散歩
盧溝橋
上海の夜と朝
上海、77mm
2010年5月、上海の社交ダンス
平遥
寧波の湖畔の村


北京の散歩(5) 王府井

2010-07-15 00:45:50 | 中国・台湾

北京、2010年5月。久しぶりに王府井(ワンフーチン)の大きな書店に足を運んだ。張芸謀のDVDを何枚か買った。

それにしても、みんな記念写真が大好きである。

※撮影はすべてPENTAX MX、M35mmF2.0、Tri-X、ケントメアRC、2号フィルタ


記念写真その1


記念写真その2


王府井書店


王府井書店


記念写真その3

●中国の古いまち
北京の散歩(1)
北京の散歩(2)
北京の散歩(3) 春雨胡同から外交部街へ
北京の散歩(4) 大菊胡同から石雀胡同へ
北京の冬、エスピオミニ
牛街の散歩
盧溝橋
上海の夜と朝
上海、77mm
2010年5月、上海の社交ダンス
平遥
寧波の湖畔の村


北京の散歩(4) 大菊胡同から石雀胡同へ

2010-07-14 23:20:45 | 中国・台湾

2010年5月。東直門から西へ、実は「Soka Art Center」に歩いて行くつもりで裏道に入り、胡同散歩。大菊胡同石雀胡同、途中で横に入ってまた戻ったり。しかし、「Soka」はデザイン学校に姿を変えていた。その後、北京798芸術区まで足を延ばしたら、そこに移転していた。(>> リンク

※撮影はすべてPENTAX MX、M35mmF2.0、Tri-X、ケントメアRC、2号フィルタ


昼食


家と煉瓦と猫車



午睡男

●中国の古いまち
北京の散歩(1)
北京の散歩(2)
北京の散歩(3) 春雨胡同から外交部街へ
北京の冬、エスピオミニ
牛街の散歩
盧溝橋
上海の夜と朝
上海、77mm
2010年5月、上海の社交ダンス
平遥
寧波の湖畔の村


2010年5月、上海の社交ダンス

2010-07-13 23:16:57 | 中国・台湾

かねてから行きたかった上海の魯迅記念館と魯迅故居。記念館がある魯迅公園に入ったところ、地面に置いたラジカセから音楽をじゃかじゃか流しての社交ダンスの集まり。和やかに練習している人も、真剣な表情でひとりで型を繰り返す人もいる。

その中に、汗だくで皆を指導する男がいた。暑いのにネクタイを締めている。こちらのカメラに目を止めて、顔をレンズに密着せんばかりに近づけ、これは何だ!ペ、ン、タッ、クス?、と破顔大笑。どこかで見たと思って、帰国後、本棚を探した。あった。『季刊クラシックカメラ No.11 メータード・ライカ』(2001年)のミノルタCLEの頁に、海原修平による作例が掲載されている。10年近く前とぜんぜん変わっていない。やはりミノルタCLEにも顔を近づけたのだろうか。

※撮影はすべてPENTAX MX、M35mmF2.0、Tri-X、ケントメアRC、2号フィルタ


『季刊クラシックカメラ No.11 メータード・ライカ』(2001年)

●中国の古いまち
上海の夜と朝
上海、77mm
北京の散歩(1)
北京の散歩(2)
北京の散歩(3) 春雨胡同から外交部街へ
北京の冬、エスピオミニ
牛街の散歩
盧溝橋
平遥
寧波の湖畔の村


北井一夫『1973 中国』

2010-07-11 17:15:45 | 写真

渋谷の「ZEN FOTO GALLERY」に、北井一夫の写真展『1973 中国』を観に足を運んだ。1973年、木村伊兵衛の誘いではじめて訪中した歳の写真群、すべて未発表である(なお、木村伊兵衛は翌1974年に亡くなり、北井一夫は第1回木村伊兵衛賞を1975年に受賞している)。北井一夫は満洲生まれ、敗戦以来はじめての中国であったという。今回あわせて出版された写真集には、以下の文章が寄せられている。

母の話でよく聞いていた北京は、どこか懐かしくそれで侵略者の息子という複雑な気持ちになって落ち着くことができなかった。

そういった精神的な影響なのか、被写体と微妙に距離を置いた間合が特徴的だ。人々の顔は、モノクロフィルムの粒子感とともに成立している。しかしこれが素晴らしく良いのだ。広角レンズ(初期の北井写真において使われたキヤノン25mm)で北京の胡同にある四合院の塀を捉え、その中で、入口付近の子どもを抱いた女性が佇む写真は、今回の写真群の中でも印象的な1枚である。

ただ、この間合は中国限りではない。三里塚でも、青森でも、沖縄でも、同じような間合の北井写真を思い出すことができる。

今回気が付いたことがある。手癖なのか、意図なのか、微妙に画面が左に傾き、水平が出ていない。 これさえも魅力のように感じられてくるから不思議だ。

北京の工場内を捉えた写真には、窓の向こう側に、明らかにライカM5を持った男が佇んでいる。台湾出身だという、ギャラリーの女性によると、木村伊兵衛その人である。そういえば、晩年の木村はM5使いであった。現在は北井一夫もM5を使っているが(いちどギャラリー冬青で愛機を持たせてくれたときには吃驚して感触を覚えていない)、このときに使われたのはライカM4であったようだ。

北井写真に感じない人にとっては何の変哲もない古いスナップかもしれないが、何とも言えず素晴らしい写真群である。ギャラリーをじっくり5周まわってしまった。

この「ZEN FOTO GALLERY」は、北京の安定門近く、国子監や孔子廟があるあたりにもギャラリーを開いたそうで、9月には北井一夫写真展が開かれるという。ちょうど北京を訪れる機会があればいいのだが・・・。

●参照 北井一夫
『ドイツ表現派1920年代の旅』
『境川の人々』
『フナバシストーリー』
『Walking with Leica』、『英雄伝説アントニオ猪木』
『Walking with Leica 2』


『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』

2010-07-11 02:16:21 | 韓国・朝鮮

済州島四・三事件(1948年)から60年が経ったことを記念した集会の記録、『済州島四・三事件 記憶と真実』(新幹社、2010年)を読む。なぜいまも、この事件のことが斯様にテーマとされているのか、それを知ることが当方の読者としての問題意識である。

事件は1948年4月3日、島民の武装蜂起を契機に起きた。事件とはいえ、その後何年間も、島という閉ざされた空間で起き続けた。独立すべきだった統一朝鮮に米ソ冷戦が持ち込まれ、米国は南朝鮮(韓国)の単独選挙を強行する。この暴挙に対する蜂起であった。これに対し、島民28万人のうち蜂起したグループとは無関係な住民2.5~3万人が、米国指示のもと、朝鮮の警察や右翼テロ集団によって虐殺される。しかし李、朴、全と続く軍事独裁政権のもと、韓国でも、そして一部の住民が密航により逃げ込んだ日本でも、事件のことを口にするのはタブーであった。

1987年の民主化後、韓国では歴史究明が進み、金大中政権での特別法(2000年)、盧武鉉大統領による島民への謝罪(2003年)に至っている。しかし、現在の李明博政権は再び右傾化し、この動きが逆行しているという。

済州島出身の親を持つ在日コリアン作家、金石範は、「泣くことの自由」が得られたのだと語っている。タブーであったから、泣くことすらできなかったということである。

こういった過去の清算に関し、軍や警察は激しく抵抗しているという。国家的な犯罪を認めてしまうこと、軍・警察という権力の存在意義が揺らいでしまうこと、改竄してきた歴史の頁が顕在化してしまうことへの恐れだ。このとき、「国家の正統性」や「誇り」や「反共」といった言葉が使われる。こういった現象のアナロジカル・トポロジカルな面が、現在の日本にとって大きな意味のひとつだ。過去の歴史に向けられる視線は、現在の権力をもかたちづくる。この場合の権力とは、国家権力や目に見える枠組だけを意味するのではなく、ミシェル・フーコーの言うような、メディアにも、井戸端会議にも、人の心理にも、何かの表現にも、あらゆるサイズのブリッジに存在する関係性のことを想像すべきだろう。そして、何が日本においてアナロジカルでトポロジカルなのかは言うまでもない。

済州四・三平和記念館を、南京虐殺記念館、沖縄県平和祈念資料館、台北二・二八記念館、光州抗争記念館と結び、「記憶のための平和巡礼団」として、「犠牲者の目」で東アジアを眺めさせ、平和の架け橋とすることが構想されている(徐仲錫)。いくつかの国を跨り、国対国に限らないスタンスは、狭隘な自虐史観を軽く越えうるものかもしれない。ここで言う「記憶」という言葉に関して、作家の玄基榮が、アウシュビッツに掲げられている警句を想起している。「アウシュビッツより恐ろしいことは、ただひとつ、人類がそれを忘れることだ。

あわせて、同時期にNHKで放送されたドキュメンタリー『悲劇の島チェジュ(済州)~「4・3事件」在日コリアンの記憶~』(2008年)を観る(>>  リンク)。ここには3人の人物が登場する。

東京都江戸川区で弁当店を営む金東日さんは、済州島四・三事件のときまだ10代ながら捕えられ、光州の牢獄に移されるが、やがて日本へと密航する。それから60年、韓国政府の招待により故郷を訪れた金さんは、1万人以上の名前が刻まれた慰霊堂で涙を流す。しかし、いまだ武装蜂起を行った人々はここには入っていない。

済州島出身者が多い大阪市生野区(かつての猪飼野)で育った李鳳宇さんは映画プロデューサー。井筒和幸の『パッチギ!』連作などを制作している。やはり親が済州島から事件の直後に日本に密航してきたのだという。久しぶりの生野区で、済州島出身の老人たちに話を聞く。ある女性は、怖くてとても事件のことを口に出すことができなかったのだと語っている。

そして金石範。これまで歴史を改竄し、その指摘すら不可能だった状況を指し、「記憶の他殺」であったのだと表現する。「歴史は抹殺できても記憶は抹殺できない」との、言い聞かせるような言葉。記憶が無数蘇り、歴史の抹殺を引き戻したことは、沖縄戦の歴史改竄とそれに対する無数の証言による怒りを想起させられる。

●参照
金石範『新編「在日」の思想』
沖縄県平和祈念資料館
盧溝橋・中国人民抗日資料館
T・K生『韓国からの通信』、川本博康『今こそ自由を!金大中氏らを救おう』(光州事件の映像)
四方田犬彦『ソウルの風景』(光州事件もタブーであった)
沖縄「集団自決」問題(12) 『証言 沖縄「集団自決」』
沖縄「集団自決」問題(18) 森住卓『沖縄戦「集団自決」を生きる』を読む


2010年6月12日、イースタンのジャイアンツ

2010-07-10 02:03:17 | スポーツ

野球を観に行ったのは数年ぶりである。久しぶりのジャイアンツ球場(よみうりランド)、娘が「Take me out to the ball game」といった主旨のことを繰り返すので連れて行った。混むのは嫌いなので二軍戦、確実に良い席。ファイターズの鎌ヶ谷球場も好きだが、ここも悪くない。もっと二軍戦を観よう。

二軍とは言え、ジャイアンツの選手であれば結構知っている。矢野、中井、エドガー、小林雅、マイケル中村らが出ていた。ちょうど太田は一軍に呼ばれたばかりで、残念ながら登場しなかった(その後すぐ戻ってしまった)。矢野なんかは一軍でもっと観たいのだが!

懐かしい勝呂コーチの姿もあった。ジャイアンツのショートストップとして出てきた年、青田昇は「向こう10年間のジャイアンツのショートが決まった」などと断言していた。しかし、すぐに川相が定着した。評論家の言うことはあてにならない。


中井は力強い


三塁コーチャーズボックスの勝呂コーチ


先発登板の高木が足をひねってしまった


栂野


小林雅


バントを失敗する矢野


マイケル中村

すべて、Pentax MZ-S + FA★200mmF2.8、ベルビア100。

公式記録 >> リンク


浦島悦子『名護の選択』

2010-07-10 00:50:51 | 沖縄

浦島悦子『名護の選択 海にも陸にも基地はいらない』(インパクト出版会、2010年)を読む。前作『島の未来へ 沖縄・名護からのたより』(インパクト出版会、2008年)からさらに2年、その間のルポを集めたものである。

沖縄県議会の与野党逆転、国政の政権交代、デタラメな辺野古の環境アセスメント、高江での抵抗と国家暴力、辺野古反対の名護市長誕生、泡瀬干潟埋立という暴挙とストップの新たな流れ、国道建設によるやんばるの森破壊。著者はすべての現場の近くに身を置き、そこで起きている実状を発信し続けている。尊敬すべき存在である・・・というと傍観しているようだが、実際に私たちは傍観者なのであって、傍観者としてこのようなナマの声を聴き、記憶しなければならない。当事者となった自らの姿を想像しうる傍観者でなければならない。そうでなければ、今後、つながりの社会など実現しないだろう。そして、社会的不公平の解消などあり得ないだろう。

本書で報告されていることは留意して捉えようとしているつもりだが、初めて知ることも少なくない。以下は、気にかけておきたい点である。

○琉球のグスクとウタキの共通項
○ハンセン病の受苦史と受容史
○広東省珠海・三竈島(さんそうとう)における日本海軍による住民虐殺(1938年)と沖縄移民の導入

●参照
浦島悦子『島の未来へ』


金石範『新編「在日」の思想』

2010-07-07 01:21:10 | 韓国・朝鮮

金石範『新編「在日」の思想』(講談社文芸文庫、2001年)を読む。済州島から単身日本に渡ってきた母から日本で生まれ、在日コリアンとして生きてきた作家が、70年代から90年代初頭まで書いた文章群である。生きてきた、というよりも、李・朴・全と続いたファシスト政権国家には戻ることができなかった、つまり「在日」として生きてこざるを得なかった、ということだ。

思想は多方面に向けられるが、主に、「在日」を取り巻く日本社会の歴史、「在日」が日本語で書くことの意味、済州島四・三事件、の3つのテーマに収斂している。

戦前、在日コリアンの労働運動や大衆運動は、日本の労働運動・左翼運動に吸収されていた。日本共産党を通じての、運動は各国単位で行わなければならないとするコミンテルンの指導によるものであった。しかし戦後1955年、日本共産党は方針転換する。それに伴い、在日コリアンの運動は独立し、朝鮮総聯という組織的な表現となる。そして1965年の日韓基本条約が後押しして、日本への帰化者が増加していく。この帰化政策は日本政府の大方針でもあったことが示される。「少数民族」問題の発生を極度に恐れ、戦前と別の形での同化を進めたのである。(一方では「北朝鮮帰国事業」もあった。)

金石範はこれに根本的な疑義を発している。もちろん、これは、書かれた30年後の現在にあってもぬらぬらと生きて蠢いている。

「しかし将来とも、帰化を望まぬ者たちもいるのであって、そのような存在をも同化の対象にせねばならぬ思想はどうしたものだろう。在日朝鮮人を是が非でも日本人化せねばならぬという、植民地支配時代の亡霊が取り憑いたような執念とでもいうべきその考えは理解に苦しむといわざるを得ない。」

次に、おそらくは矛盾の中に身を置く者としてのみあり得たことだが、なぜ在日コリアンが、かつての侵略者、収奪者のことばを使って表現するのか、という問題を提起し、苦しみながら思想している。従って、はっきりとした方向性が結論として示されているわけではない。

ことばは社会であり、社会はことばである。抑圧的で暴力的な社会にあっては、ことばの構造も抑圧的で暴力性を持つ。しかし、作家としての想像力は、日本語に拠って立つ。支配者のことばを使ってそこから自由になるとはどういうことか。逆にそれは、朝鮮や韓国といった呪縛からも距離を取ることを意味しないか。負の側面や矛盾は文学的エネルギーに転化しないか。ことばが開かれる地平はどこにあるか。そもそも、「朝鮮」を書くとはどういうことなのか。―――そのような思想である。私たちが自らのことばの暴力性や内在する呪縛に無自覚でいることは、自らの姿を見ないことでもあるということか。

そして、1948年の済州島四・三事件。朝鮮統一せずに南側だけで対米追従政権をつくる動きに、済州島の島民が蜂起した。それに対し、米軍と李承晩政権は武力で応え、20数万人口の四分の一が虐殺された。その事実と、済州島がもともと受刑者の流される島であって蔑視されてきたという史実は知ってはいたものの、その様子の残酷さに慄然とさせられる。元々、島民は政治的に革命的な傾向を強く帯びており、また行政機関は本土出身者によって占められ島民が排除されてきた、という背景があったという。

金石範は、ここで済州島を「日本における沖縄」になぞらえている。なるほど、差別構造の存在がある。そして、済州島も現在では「癒しのリゾート」と化している。

●参照
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
井上光晴『他国の死』
野村進『コリアン世界の旅』
『世界』の「韓国併合100年」特集
尹健次『思想体験の交錯』
尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真
朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』


イエメンの映像(1) ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアンナイト』『サヌアの城壁』

2010-07-04 23:12:09 | 中東・アフリカ

ピエル・パオロ・パゾリーニについては、天才とか変態とかいった表現よりも、無限の業を背負った表現者であったと言うべきなのかもしれない。『アラビアンナイト』(1974年)もパゾリーニならではの奇怪な作品である。現在出ているDVDなどはどうなのか知らないが、随分前、あまりにも観たくて輸入版のVHSを購入したところ、モザイクも「フハフハ」(丸谷才一風)も皆無で、底なしのエロエロぶりに圧倒されてしまった。


パンフレットも探しだした

ちょうど、バートン版『千夜一夜物語』(角川文庫)を読み進めていたころで―――と言っても、まだ3巻くらいで抜け出したままなのだけど―――、映画に採用された物語をいくつも発見することができた。どこを切っても残酷で不条理極まる艶笑譚である。

映画はたった2時間強だが、それでも語りによる物語がハチャメチャに続いていく。従って要約は難しい(そのため、観るたびに忘れる)。映画に使われなかったフィルムと後述の『サヌアの城壁』を、以前にDVDで入手したのだが、これを観ると、やはり、落とさざるを得なかったであろうフッテージがあったことがわかる。このために、映画では不自然になってしまっている挿話があるのだ。こればかりは仕方がない。

また、いい加減にしろ、と言いたくなるような設定(>> たとえばこれ)も少なくない。もちろん、貶しているわけではない。じっとりと熱くてエロエロ、無敵の映画だ。今までに何度も観たが、子どもが寝静まっているとき限定で、今後も観てしまうことだろう。

見どころは、どうしようもないディテール描写だけでなく、イエメン、イラン(イスファハン?)、ネパール(カトマンドゥ)でのロケだ。イエメンとイランは近くであるかのように想定されているが、ネパールは、インドの王に浮気の罰として猿にされてしまった男が連れてこられる場所である。なかでもイエメンの時間が長く、サヌアザビード、あるいは近くの街の風景が映し出されている。イランにしてもパーレビ王朝時代、イラン革命前であったから、このような不届きな映画のロケが許可されたに違いない。

イエメンは近代化から取り残されてしまったような国であるから、私が訪れた1998年でも映画とさほど変わらない。とはいえ、王女の住処という設定のロック・パレス(かつてイマーム・ヤヒヤという王が住んでいた)の映像と写真を見比べてみると、荒野の中で何となく周辺がこざっぱりとしている(ような気がする)。また、パゾリーニは同時期、『サヌアの城壁』(1974年)という短いドキュメンタリーを作っており、そこに出てくるサヌアのバーバルヤマン門の周辺はやはりいかにも古い。


ロック・パレス(1998年) Pentax MZ-3、FA28mmF2.8、Provia 100、DP

『サヌアの城壁』は、ユネスコにサヌアの保護を訴えるためのフィルムのようで、イタリア語はまるで解らないが、「ユネスコ」という言葉が連呼される。映画の最初は、イエメン国内の道路工事が記録されている。昔から中国人が工事に従事していたため、中国風の墓がサヌア近郊には存在する。カメラはそれだけでなく、商店に並ぶ中国製の食品なども記録しているのが面白い。また、サヌアの古い街並みには威圧されるほかはなかったようで、ただ壁面や窓の漆喰のディテールを舐めるように追っている。


商店の缶詰(『サヌアの城壁』より)


サヌアの建物の漆喰(『サヌアの城壁』より)


買ってきた建物のおもちゃは、まだ大事に飾っている

●参照
イエメンとコーヒー
カート、イエメン、オリエンタリズム
イエメンにも子どもはいる