済州島四・三事件(1948年)から60年が経ったことを記念した集会の記録、『済州島四・三事件 記憶と真実』(新幹社、2010年)を読む。なぜいまも、この事件のことが斯様にテーマとされているのか、それを知ることが当方の読者としての問題意識である。
事件は1948年4月3日、島民の武装蜂起を契機に起きた。事件とはいえ、その後何年間も、島という閉ざされた空間で起き続けた。独立すべきだった統一朝鮮に米ソ冷戦が持ち込まれ、米国は南朝鮮(韓国)の単独選挙を強行する。この暴挙に対する蜂起であった。これに対し、島民28万人のうち蜂起したグループとは無関係な住民2.5~3万人が、米国指示のもと、朝鮮の警察や右翼テロ集団によって虐殺される。しかし李、朴、全と続く軍事独裁政権のもと、韓国でも、そして一部の住民が密航により逃げ込んだ日本でも、事件のことを口にするのはタブーであった。
1987年の民主化後、韓国では歴史究明が進み、金大中政権での特別法(2000年)、盧武鉉大統領による島民への謝罪(2003年)に至っている。しかし、現在の李明博政権は再び右傾化し、この動きが逆行しているという。
済州島出身の親を持つ在日コリアン作家、金石範は、「泣くことの自由」が得られたのだと語っている。タブーであったから、泣くことすらできなかったということである。
こういった過去の清算に関し、軍や警察は激しく抵抗しているという。国家的な犯罪を認めてしまうこと、軍・警察という権力の存在意義が揺らいでしまうこと、改竄してきた歴史の頁が顕在化してしまうことへの恐れだ。このとき、「国家の正統性」や「誇り」や「反共」といった言葉が使われる。こういった現象のアナロジカル・トポロジカルな面が、現在の日本にとって大きな意味のひとつだ。過去の歴史に向けられる視線は、現在の権力をもかたちづくる。この場合の権力とは、国家権力や目に見える枠組だけを意味するのではなく、ミシェル・フーコーの言うような、メディアにも、井戸端会議にも、人の心理にも、何かの表現にも、あらゆるサイズのブリッジに存在する関係性のことを想像すべきだろう。そして、何が日本においてアナロジカルでトポロジカルなのかは言うまでもない。
済州四・三平和記念館を、南京虐殺記念館、沖縄県平和祈念資料館、台北二・二八記念館、光州抗争記念館と結び、「記憶のための平和巡礼団」として、「犠牲者の目」で東アジアを眺めさせ、平和の架け橋とすることが構想されている(徐仲錫)。いくつかの国を跨り、国対国に限らないスタンスは、狭隘な自虐史観を軽く越えうるものかもしれない。ここで言う「記憶」という言葉に関して、作家の玄基榮が、アウシュビッツに掲げられている警句を想起している。「アウシュビッツより恐ろしいことは、ただひとつ、人類がそれを忘れることだ。」
あわせて、同時期にNHKで放送されたドキュメンタリー『悲劇の島チェジュ(済州)~「4・3事件」在日コリアンの記憶~』(2008年)を観る(>> リンク)。ここには3人の人物が登場する。
東京都江戸川区で弁当店を営む金東日さんは、済州島四・三事件のときまだ10代ながら捕えられ、光州の牢獄に移されるが、やがて日本へと密航する。それから60年、韓国政府の招待により故郷を訪れた金さんは、1万人以上の名前が刻まれた慰霊堂で涙を流す。しかし、いまだ武装蜂起を行った人々はここには入っていない。
済州島出身者が多い大阪市生野区(かつての猪飼野)で育った李鳳宇さんは映画プロデューサー。井筒和幸の『パッチギ!』連作などを制作している。やはり親が済州島から事件の直後に日本に密航してきたのだという。久しぶりの生野区で、済州島出身の老人たちに話を聞く。ある女性は、怖くてとても事件のことを口に出すことができなかったのだと語っている。
そして金石範。これまで歴史を改竄し、その指摘すら不可能だった状況を指し、「記憶の他殺」であったのだと表現する。「歴史は抹殺できても記憶は抹殺できない」との、言い聞かせるような言葉。記憶が無数蘇り、歴史の抹殺を引き戻したことは、沖縄戦の歴史改竄とそれに対する無数の証言による怒りを想起させられる。
●参照
○金石範『新編「在日」の思想』
○沖縄県平和祈念資料館
○盧溝橋・中国人民抗日資料館
○T・K生『韓国からの通信』、川本博康『今こそ自由を!金大中氏らを救おう』(光州事件の映像)
○四方田犬彦『ソウルの風景』(光州事件もタブーであった)
○沖縄「集団自決」問題(12) 『証言 沖縄「集団自決」』
○沖縄「集団自決」問題(18) 森住卓『沖縄戦「集団自決」を生きる』を読む